Sooda!
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「かいおう」が二人いた、という非常に面白いニュースです。

どのように思われますか?

◆もう1人いた「かいおう」
東京スポーツ 2011年07月21日 11:39

http://www.tokyo-sports.co.jp/writer.php?itemid=14725

さすがにこの名前はほとんど知られていないようにみえる。かつて時津風部屋にいた元十両「凱皇」。


おなじ読みの大関が引退したことで、この名を思い出した。


本家と言うべき「魁皇」は上手、もしくは下手でも、右でまわしを取ればめっぽう強くて相手を振り回していたが、もう1人の「かいおう」も187センチ、156キロの体を生かした引っ張り込みなど、豪快な取り口で有望視されていたように覚えている。


ほとんど忘れていた力士にまつわる記憶をネット検索で呼び起こすと――。


1957年4月14日生まれ、新潟県十日町市出身。


73年春場所に初土俵を踏み、25歳になる直前の82年春場所に十両昇進を果たす。十両を7場所務めた後、86年名古屋場所かぎりで角界を去る。187センチ、156キロは、当時としては大型の部類。「相撲人名鑑」によると、四股名は「祖父の知人である女性浪曲師が命名」したとある。


魁皇は師匠友綱親方(元関脇魁輝)の四股名を一字もらったもので、出身地も一門も違うから、両者におそらくつながりはない。


だが、優勝5回、横綱を期待されながら果たせなかった大関に、同じく大器と期待されながら未完のまま終わった大型力士がだぶってしまう。


凱皇は悲劇の力士でもあった。

順調に出世して20歳で幕下中堅まで番付を上げた77年、名古屋場所中にアクシデントに見舞われた。風呂場で倒れ、はずみでガラス戸を突き破った左腕に大けがを負い、半年近いブランクを強いられた。

左腕はいわば命綱。復帰後は右腕一本で相撲を取るような形になりながら、約4年をかけて関取に。だが、けがは最後まで尾を引いた。

なぜか十両昇進当時の十日町市の広報紙がネットにアップされている。同市で開かれた激励会の様子を伝えるもので、後援会長が「もし(昭和)52年7月の、左腕動脈切断という大怪我がなかったなら、この激励会は大関昇進祝いであったかも知れない」と語っている。集まった市民は約500人。ことほどさように期待感は大きかった。

その凱皇の廃業後が、2009年にテレビ番組で紹介された。相撲をやめた直後の86年9月から、郷里の新潟県が生んだ英雄・田中角栄元首相の介護をしていたというのだ。

広報紙にある後援会長の話は「凱皇は努力と忍耐とたえしのぶことを知った」と続く。後に相撲協会理事長となる師匠の時津風親方(元大関豊山 ゆたかやま)は「凱皇は人の三倍努力してようやく十両になれた」と語っている。自ら痛みを経験したことが、ただちに人の介護に向かわせたのか。

惜しまれる未完の大器。凱皇が大関になっていたら、「魁皇」の四股名もなかったかもしれない。

質問者:スウィフト
質問日時:2011-11-23 09:41:54
カテゴリ:趣味・エンターテイメント>スポーツ・アウトドア>相撲・格闘技

ベスト回答
知っていましたよ。
凱皇も魁皇もいい力士さんでした。
惜しい人が角界から去ったと思い、引退直後は悲しんだモノです。
これからも第二の人生を頑張って頂きたいものです。

回答者:匿名希望
回答日時:2011-11-23 18:22:15

この回答の満足度 ★★★★★

↓↓その他の回答 1〜5件/14件中
知りませんでした。長い大相撲の歴史から見れば、あることだとは...詳細

回答者:匿名
回答日時:2011-11-25 15:12:05

この回答の満足度 ★★★★★
本当なんですか?こんなこともあるんですね。詳細

回答者:匿子
回答日時:2011-11-25 09:49:39

この回答の満足度 ★★★★★
驚きですね。こんなこともあるんだね。詳細

回答者:匿名
回答日時:2011-11-23 21:25:01

この回答の満足度 ★★★★★
知りませんでした。ふたりとも立派だと思います。詳細

回答者:とくめい
回答日時:2011-11-23 21:09:54

この回答の満足度 ★★★★★
知りませんでした。偶然なんですかね〜。詳細

回答者:とくめい
回答日時:2011-11-23 18:48:29

この回答の満足度 ★★★★☆
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