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救済論について

  • 15-09-13 10:02
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Lead Me to the Cross
a photo by Tina

Soteriology(救済論)101

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〔追記 2015年9月8日〕

魂の救いに関しては大きな違いを持つ教えが2つあります。

ひとつはプロテスタントに多い "once saved, always saved" (一度救われたら、ずっと救われる、つまりその救いを失うことはない)という教えです。わたしも以前はそれを教えられそのように考えていました。この教えの逃げ道は、教会で熱心だったクリスチャンでもうその信仰生活に興味を持たなくなって、罪にまみれる生活を送るようになった人はそもそも、もともと救われていなかったのだ、と言えることです。結局、この間違った神学は前回にも話した either/or思考(dualism; 二元主義)によるものです。

カトリックの教えは both/and です。確かに救いはキリストによってのみ、彼を信じることによってのみもたらされる。そこにわたしたちの行い(業績)の余地はない。それは神の恵みによるものである(エペソ人への手紙 2章8-9節)。しかし、そうして救われた後、わたしたちはロボットになるのではない。

自由意志を持つ人間として、その恵みに積極的に反応し、その恵みの中で成長することもできれば、「や~めた」とその恵みを踏みにじることもできる。神はわたしたちが愛することを強制しない。自由を与え、さらに恵みを降り注ぎながら、わたしたちが自ら進んで愛することを促される。しかし、自由とは、その自由を、その恵みを、踏みにじることができる自由も含まれる。

ロボットではない人間にはそれが可能な自由の意思が与えられている。そして踏みにじった場合、その人がもう一度救われるということはない、と聖書にははっきり書かれてある(ヘブル人への手紙 6章4-8節;10章26-31)。常識でもそれはわかるような簡単なことだが、一度救われたら、そのあとは何をしても天国へ行くという "once saved, always saved" という教えが広められているのはサタン(悪魔)の仕業かもしれない。全く聖書的ではないそのような教えをいかにもそれらしく権威あるような声で語る説教者は危険な存在です。わたしたちは救われて、救われ続けて、最終的な救いを待ち望んでいる、というのが正しい理解であるとカトリック教会は教える。それが both/and の考え方です。
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(以下の神学的理解はプロテスタントの神学者に基づくもので、カトリック教会の教えとは違います。救われるか救われないかを最終的に判断する裁き主はイエス・キリストであることを強調した救済論のひとつです。)

神学というものは今までそうだと信じていたことをバラバラに崩してしまうほどの力がある。そして、そこからしっかりとした土台を築き、建て直す力を持つ。

神学を学ぶなら、それを覚悟しておいたほうがよい。ある意味、非常に苦しい試練を与えられる。特に牧師さんなど教会の指導的立場にある人たちはそう。今まで教えていたことが間違っていたと認めるだけでなく、真理を知らなかった無知な自分に圧倒され、その職を離れざるを得なくなるかもしれない。そうなるとこれからの生活をどうやって立ててゆけばいいかなど現実的な問題だけでなく、今まで多くの人に誤ったことを教え続けてきたことに対する自責の念などと戦わなければいけないかもしれない。精神的に弱い人はうつなどの病気になってしまうかもしれない。指導者がより厳しく裁かれると聖書にあるのはそういうことだ。人を導くべき者である自分が、実は、盲目のガイドだったと気づくのだから真面目な人ほど苦しむだろう。

(中川牧師のマネ)Are you ready?

多くのクリスチャンがディスペンセーション神学などおかしな終末論を教えられているということを前回述べたが、救済論についてもしっかりと教えられていない。日本は今ちょうどお盆の時期なので、時にかなったトピックだし、ぼくが神学校で学んだことを少し分かち合います(フラー神学校はプロテスタントの学校です。以下は、そのときに学んだこと)。

いきなりですが、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダが天国に行く可能性はありますか?ヒットラーは?答えは、Yesです。えぇ~???ちょっと待ってね。じゃぁ、彼らが地獄へ行く可能性はありますか?答えは、Yesです。あ~良かった?間違った神学を教えられているとこういうところでつまずいて、議論を呼んで、いや~な雰囲気になります。前にも書いたけれどその元凶は either/orの考え方、dualism(二元主義)です。ぼくたちは、しばしば、AかBかどちらかが正しいと教えられています。でも人生そんなに白黒はっきりしていない。しかし、残念なことに、神学校でもそれをはっきりさせたくて、体系的に間違ったことを教えています。ディスペンセーション神学のようなものを組織神学のクラスで教えられているのが現状です。これではおかしな指導者が増えるばかりで困ったものです。

上のショッキングな例は神学を学ぶ上で(極端な例だけど)初歩的な質問です。これをちゃんと答えられないと実際、臨床的に(牧会的に)困ることが起こります。例えば、自殺した人(ユダも自殺した)はどうなるのか(みんな地獄へ行くのか)とか、ヒットラーのようにひどい犯罪を犯した人は地獄行き決定なのか(イエス様は十字架の上で、隣の罪人に「今日、あなたはわたしと共に楽園にいる」といわれたけど・・・)、死ぬまでイエス様を信じなかったおじいちゃんやお母さんはどうなるのかとか、他宗教の人はみんな地獄へ行くのか、とか。日本のお盆は先祖の霊を供養する行事だけど、イエス様を信じていなかったご先祖様はみんな地獄へ行くのか、とか。あの悪さばかりしていた少年、少女、青年はどうなるのか、とか。間違った神学を教え込まれていると、ここで either/orの答え(YesかNoか)を出したくなります。

救済論で最も大切なことは、わたしたちが救われるかどうかをわたしたちが判断することではなく、イエス様がわたしたちのために死んでくださって、よみがえったことを信じることで、死ののろいから開放されることです。

   今、わたしたちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたものです。
   キリストは死を滅ぼし、福音によって不滅の命を明らかに示されました。 
                           テモテへの第二の手紙1章10節

つまり、死はキリストの前では力を失った、死がわたしたちの運命を決めるのではない、ということです。わたしたちの運命はわたしたちがどうすることもできなかった死に打ち勝ったイエス様の手にあるということです。

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自分の力で自分の罪のつぐないをするのは不可能だということを謙遜に認め、「助けてください」と言う事で、救いの業は始まります。「俺は罪など犯していな い」と最近会った人が言っていましたが、罪の意識がないとそれは始まりません。もし、あなたが自分を罪深い人間だと感じているなら、それは悪いことではありません。もう一歩踏み出して、イエス様のことを知ってください。そうすれば、イエス様、助けてくださいと言える恵みを受け、あなたは救われます。ほかの誰に悪口を言われようと、「あなたのような人間は地獄に行って当然だ」とか言われようと、悔い改めて、イエス様の助けを求めれば、生まれ変わることが出来ます。

   ですから、誰でもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。
   古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。 

                コリントの人々への第二の手紙 5章17節

十字架の刑は極悪人の刑でした。罪のないイエス様が十字架にかかったのはわたしたち罪びとの身代わりとなったからです。そして、隣にいた瀕死の極悪人も悔い改め、彼を信じたことで、その場で罪の許しを受け、楽園を(今日!)約束されました(もう一人の極悪人は残念ながら最後の最後までイエス様を馬鹿にしていた)。
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だから、死んだあとに裁きがあります。その裁き主はわたしたちではなく、イエス様です。ユダもヒットラーも自殺したあの人も、じいちゃんもばあちゃんも、交通事故で突然亡くなったあの方もわたしもあなたもイエス様の前に出ます。

   なぜなら、わたしたちはみな、キリストが座る裁きの座の前に立って、
   善であれ悪であれ、体を住まいとしていた間に行ったことに応じて、
   一人ひとり報いを受けなければならないからです。
               コリントの人々への第二の手紙 5章10節

イエス様を信じないまま死んでしまったから地獄に行くのではありません。死がその人の運命を決定付けるのではないからです。死はイエス様の前ではもう力がありません。だからカトリック教会では死者のためにも祈ります。人間的に考えれば、あんな人が天国へいけるはずないというときも、わたしたちは自分でその人の救いを判断したりはしません。イエス様にゆだねます。

   このわたしはあなた方に裁かれても、あるいは人間の法廷で裁かれても、
   いっこうに意に介しません。それだけでなく、自分で自分を裁くこともしません。
   わたしは自分になんらやましいところはありませんが、だからと言って、
   わたしが義と認められたわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
   ですから、あなた方は主が来られないうちに、どんなことも決して早まって
   裁いてはなりません。主は暗闇に隠されているものを明るみに出し、
   心の中の企てを露にされます。
                    コリントの人々への第一の手紙 4章3-5節

ある人は言います。天国に行ったらびっくりするよ、なんでこの人がここにいるの、とか、なんであの人がいないの、とか。仏教徒やイスラム教徒やヒンズー教徒もいるかもしれない。

   イエスは仰せになった。「わたしは道であり、真理であり、命である。
   わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。
                     ヨハネによる福音書 14章6節

プロテスタントではしばしばこの聖句を使って、イエスを信じないで死んだ人は皆地獄へ行くと教えられます。でも、ちょっと考えればわかります。その道へ行く道はいろいろあるかもしれない。イエス様という道にたどり着く道は人それぞれ。それを妨げようとする悪魔という存在はあるけれど、死にはもはやその力はない。イエス様の復活によって滅ぼされたから。

さて、だからといって伝道(カトリックでは宣教といいますね)をしなくていいというわけではない。イエス様を信じて洗礼を受けたものは救われる、とあるように、死ぬ前にそうやって神の国(天国、教会、微妙な違いはあるけど)に入るのが良いのは決まっている。ぼくたちは自分の愛する人たちのために祈り、イエス様のことを語らなければならない。

ぐちゃぐちゃな人生でも、そんな自分のために、罪のない人が十字架の死という恐ろしい罰を受けほんとうはそこにいるべきである自分に救いの道を開いてくださったことを知れば、身代わりになってくださったイエス様の愛を知れば、その瞬間、その人は変えられる。新しい人になる。それが福音だと語らなければならない。

救済論は死をも克服されたイエス様が救い主となられたことを喜び、祝い、感謝し、謙遜になってすべてをゆだねる姿勢を持つことに基づかねばならない。either/or の考え方に汚染されてはいけません。

終末論と同じで救済論もその中心となるのはイエス様で、わたしたちがイエス様と一致すること、ひとつになることです。だから教会は「キリストの体」「イエスの花嫁」と呼ばれます。

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中川牧師はキリスト教は「男性的な宗教です」と断言しているけれど、男性的な「花嫁」???
また、その発言はマリア様のことをまったく理解していないことにも由来すると思う。マリア様に起こったことがわたしたちにも起こることをすべてのクリスチャンは希望としているのだから。

   み使いは答えた、「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。
   それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」 ルカによる福音書1章35節

神とひとつになること。心だけでなく、この体も。それが、終末論の、そして救済論の真髄です。

このことをEastern Orthodox Church(東方正教会)では Deification (神成)といいます。仏教で人が死んだら「仏」というのに似ています(内容はぜんぜん違うけど)。

(追記 2015年9月13日日曜日)

カトリック教会では Divinization (theosis)といいます。

   みことばが人となられたのは、わたしたちを「神の本性にあずからせる」(二ペトロ1∙4)
   ためです。「みことばが人となられ、神の御子が人の子となられたのは、人がみことばに
   結合することで神と親子の縁を結び、神の子となるため」(聖イレネオ)であり、
   「神の子が人となられたのは、わたしたちを神とするためなのです」(聖アタナシオ)。
   「神のひとり子は、わたしたちがご自分の神性にあずかることを望み、
   わたしたちの本性を受け入れて人となり、人間が神となるようになさいました」
   (聖トマス・アクィナス)。
                 カトリック教会のカテキズム パラグラフ460

今年(2015年)の8月15日に買って、それを読んでいるけど、カトリック教会のカテキズムというのは凄い神学書だ。なんで今までこんな凄いものを手にしなかったのだろう。まるで、天使に守られていた命の木に手を伸ばす許可をやっと得たような。はっきり言って、これはそれまで最高峰の神学書だと考えていたカール・バルトの Church Dogmatics を超える。まさかそんなものが出てくるなんて想像もしていなかった。


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