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マリア様について

  • 15-08-15 22:07
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Mary and Jesus painted on silk 1960s
a photo by Blue Ruin 1

Mariology(マリア神学)101
 
   それでは、兄弟のみなさん。真実であること、尊ぶべきこと、神の前に正しいこと、
   清いこと、愛すべきこと、評判の善いこと、また、何らかの徳や賞賛に値することは、
   すべて心に留めなさい。            フィリピの人々への手紙 4章8節

マリア様を愛している女性は美しい。マリア様を心から慕う男性も素晴らしい(ヨセフ様のように)。マリア様に偏見を持っていたプロテスタント時代にぼくはそれに気付かなかった。気付こうともしなかった。それはまるでクリスチャンになる以前の自分がイエス・キリストや教会などにまったく関心がなかったことに似ている。今、マリア様をお慕いしているのは、そうする心が与えられたのは、神の恵みに他ならない。カトリックに改宗してよかった。改宗する恵みを与えられてほんとうによかった。

少し考えればわかることである。イエス様を愛するなら、そのイエス様を産んだ母親を愛さないはずがない。プロテスタントでそれに気付かないどころか、マリア様を目の敵(めのかたき;相手を自分に害をなすものとして見ること)にさえするような人が多いことは実に残念なことである。中川牧師のような影響力ある人がそうであるのも非常に残念だ。でも、ぼくも以前はそうだった。自分が何をしているかわからない状態だった。神様の何かしらのご計画があってのことだろう、少なくとも今回ぼくが彼の存在を知らされて、神学的誤りを指摘しながら、このようなことを書くようになったのもそのご計画のうちだったのかもしれない。

カトリックのある友人が彼のメッセージを聞くように薦められ、聞き始めた。すると、マリア様を侮辱しているような発言に嫌になってすぐ聞くのをやめたと言っていた。マリア様をそういうふうに嫌う人はイエス様も眉をひそめる(自分の母を侮辱されて喜ぶ息子がどこにいよう)。危険な神学であるディスペンセーション主義のことを知らなくても、マリア様を馬鹿にしているということで直感的に「違う」と感じたのはその人を間違った道から救う聖霊の導きだ。愛するべき人を愛していない人には「何か」ある。どんなに雄弁にメッセージを語っても、どんなに有名な説教者でも、根本的な愛の精神(マリア様はそれが受肉したような存在)を認められないのには何か欠けている具体的な現れだ。神学的にそれを説明できなくても、マリア様を愛する人は敏感に察知できるという証だ。

おそらくこういう直感は男性より女性のほうが優れている。中川牧師は教会は本来非常に男性的である(あるべき)とメッセージの中で言っていたが、イエスの花嫁と呼ばれる教会を男性的花嫁とするのはちょっと気持ち悪い。男性より女性のほうが熱心な環境を嘆いて「男性よ、立ち上がれ!」と言いたいのはわかるが、神学的にそれをこじつけるのはおかしい。そういう偏り発言が出るのは dualism(二元主義;either/orの考え方)にどっぷり浸かっている(これも)現れ(manifestation)だ。教会は男性的とか女性的とか決め付けられるものではない(でも、花嫁と呼ばれる限りは、女性的な性質が教会に多々あることは間違いない)。とにかく、女性は中川牧師がそう言うからといって男性的に振舞ったり、肩身の狭い思いをする必要はない。教会の母であるマリア様(神学的には「神の母」と呼ばれる)がおられる。教会はずっと彼女を慕い続けてきた。彼女の模範に倣おうとしてきた。教会は男性的とか女性的とか決め付けるのではなく、イエスの花嫁らしく、マリア様のような母らしくあるべきだ。

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このことは終末論学的にも重要だ。クリスチャン・シオニストの言っているようなイスラエルの定義はパウロの神学からかけ離れている。

   あなた方はみな、信仰によってキリスト・イエスと一致し、神の子なのです。
   洗礼を受けてキリストと一致したあなた方はみな、キリストを着ているのです。
   そこにはもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、
   男も女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにおいてひとつだからです。
   キリストのものであるなら、それこそ、あなた方はアブラハムの「子孫」であり、
   神の約束によって、その恵みを受け継ぐ者なのです。 
                          ガラテヤの人々への手紙3章26-29節
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神学的には前回述べたように、使徒信条とニケア・コンスタンティノープル信条(AD325 & 381)にあるようにマリアなくしてメシアなし、マリアなくして救いなし、という教理を受け入れない者は異端であると教会は宣言する(特にDocetism仮現説)。中川牧師のようにマリア様を侮辱する指導者は自分を見直す必要がある。神学的にそれらの信条を自分の都合の良いように説明し、自分の会衆を納得させても、実体験が伴わないのでどこか頭でっかちになっている感じがする。神学的に乙女マリアの重要性を認めながらマリア様を侮辱するような言動ができるのはおかしなことだが、不思議とぼくも以前そうだった。

ぼくの個人的な感想は以上。では、いよいよマリア様についての奥義のひとつを聖書からご紹介します。Are you ready?

イエス様は神のみ言葉が受肉された方、マリア様は契約の箱(Ark of the Covenant)が受肉したような方だと前回述べました。今回はマリア様が第二のエバであることを見ましょう。

パウロはイエス様を「第二のアダム」(ギリシャ語では「最後のアダム」)と呼び、その奥義を紐解いています(ロマ書5章12-21とコリント第一15章45-49)。

ヨハネは弟子の中で唯一マリア様を自分の母として受け入れるようイエス様に言いつけられた者です(ヨハネによる福音書19章27節)。マリア様と共に住み、誰よりも彼女の近くにいたヨハネが書いた福音書はまさに第二の創世記とも言える一週間(7日間)の物語で幕を開けます。

第一日(1章1節)
初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。

第二日(1章29節)
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った、「見るがよい。世の罪を除く神の小羊だ。」

第三日(1章35-36節)
その翌日、ヨハネはまた、二人の弟子とともに立っていた。そして、イエスが歩いておられるのを見つめて言った、「見るがよい。神の小羊だ。」

第四日(1章43節)
その翌日、イエスは、ガリラヤに行こうとなさって、フィリポを見つけられた。イエスは彼に、「わたしについてきなさい」と仰せになった。

第五日と第六日はつぎの「さて、三日目に」に含まれる。

第七日(2章1節)
さて、三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。

このあとの話は有名なカナでの婚礼でイエスがなさった最初の徴(しるし)についての記述だ。

その鍵となるのが、4節「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだきていません」

何故、「お母さん」(ギリシャ語は μητέρα、アラム語は Ama)と呼ばず、「婦人よ」と他人行儀に息子が母親を呼ぶのか。ギリシャ語でγύναι(グナイ;woman;女よ)だ。これは創世記でエバ(女)がアダム(男)に話しかけ、禁じられた実を食べて罪をおかした場面を反映している。ただ、男に罪を犯すよう誘ったエバと違い、「何でもこの人の言うとおりにしてください」と給仕たちに「従う」指示を出す(5節)。第二のエバであるマリアは神に従うことを喜びとし、それを周りの人々にも伝える女(ひと)であった。水をぶどう酒に変化させる奇跡の業にはこの壮大な新創世のの背景がある。「わたしの時はまだきていません」と言われたように、この時のぶどう酒は時がきたら流すイエスの「血」と聖霊を象徴する。

世界は神のみ言葉によって造られた。肉におけるイスラエル(水)が真のイスラエル(ぶどう酒;酒精のことを英語で spirit スピリットという。つまり、霊)となるのも神のみ言葉、イエスの血潮による。

イエス様が十字架にかけられ息を引き取られたとき、体から水と血が流れ出た(ヨハネによる福音書19章34節)。イエス様は肉にあって正真正銘のイスラエルであり、それを真の姿にする唯一の血を流すいけにえ、神の小羊であった。

   このイエス・キリストは水と血とによって来られた方です。水によるだけでなく、
   水と血によって来られたのです。霊がこのことを証しする方です。霊は真理だからです。
   証しをするものが三つあります。すなわち、霊と水と血です。この三者は一致しています。
                           ヨハネの第一の手紙 5章6-8節

悔い改めの水の洗礼だったにもかかわらず、イエス様はヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた。ヨハネはそれをとめようとしたが、イエス様は聞き入れなかった。それは悔い改める必要のない罪なき小羊イエスがイスラエルのすべての罪を背負って死ぬ覚悟だった。水の洗礼はご自分とイスラエルが一致している(ひとつである)ことを宣言する出来事だった。

出産の際、女性は破水を経験しますが、そのとき水だけでなく出血もしばしばみられるそうです。それも新しい命が生まれる不思議です。

この霊と水と血の神学から見れば、イスラエルと教会を別物にする(中川牧師の)ディスペンセーション神学も、教会がイスラエルにとってかわったとする置換神学もおかしいことがわかります。
イスラエルは本当の自分、真の姿のイスラエルになったと考えるのが正しい。

   自分をこの代に同化させてはなりません。むしろ、心を新たにして生まれ変わり、
   何が神のみ旨か、すなわち何が善であり、神に喜ばれ、また完全なことであるかを
   わきまえるようになりなさい。        ローマの人々への手紙 12章2節

中川牧師も指摘されていたように(ここは正しい解説でした)、「生まれ変わり」と訳されているギリシャ語は μεταμορφοῦσθε で 英語の metamorphosisメタモルフォシス(変態)、つまり芋虫がさなぎになり、さなぎが蝶になるような変化を言います。

すなわち、イエス様に起こったことがわたしたちにも起こるというのがクリスチャンの希望です。
わたしたちは今の芋虫やさなぎ状態から本当の姿になって羽ばたくのです。それが復活の力です。

中川先生は「位置的真理」(positional truth)と言われていましたが、ぼくが学んだ objective reality(客観的現実)と同じような意味だと思います。キリストにおいて救いが完成したのです。
わたしたちはその位置に、現実に、聖霊の力によって入ることが出来る、一致することができるのです。それは神の恵みがなせる業です。

中川先生が言われるロマ書7章クリスチャンの状態はその(客観的)現実があるにもかかわらずそれを体験できていない、つまり subjective reality(主観的現実)がついていけていない状態だと思います。神学を学ぶことは大切ですが、それだけでは頭でっかちになって、日々訪れる試練に押しつぶされそうになります。しかも、芋虫のときの天敵もいやだけど、さなぎになったら身動きが取れなくてそれを狙ってくる別の天敵がでてくる。New level, new devil.です。

話がちょっとそれました

ま、今日は2015年8月15日土曜日、聖母被昇天の祝日。マリア様についてちょっと分かち合いをさせていただきました。

プロテスタントを10年やったあとにカトリックになった者として言えることは、プロテスタントにも良いところが沢山あるけれど、神様が与えてくださっている数々の恵みの賜物を知らないでいるのがもったいない。特にマリア様(マリア信仰などカトリック信者は誰も持っていません!)に関することの誤解で、ロザリオの祈り(すごいですよ、この力は)を知らないままクリスチャン生活を終えるなんて、もったいない。

マリア様のことを知れば知るほど、その魅力のとりこになります。マリア様の最も喜ぶことはわたしたちが彼女の御子(おんこ)イエス様を愛することだからです。彼女は人類史上ただ一人神と物理的に一致した人です(イエス様のことはプロテスタントのとき聞いたけど、マリア様のこの一致については聞いたことがありませんでした)。こころも体もひとつになった方です。そして、それはわたしたちの目標であり、希望でもあります。キリストと完全に一致すること。その一致は個人的な一致にどどまりません。アダムとエバの時代から(イスラエルがまだイスラエルでなかった時代から)2015年の教会(キリストを信じるすべての人々)までの一致です。そんなとてつもないことが、キリスト・イエスにおいては可能なのです。

最後に今日のミサで読まれた聖書の箇所を抜粋して終わります:

   天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた。
   また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、
   月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
   女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。
   また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。
   これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。
   竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。
   そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、
   その子を食べてしまおうとしていた。
   女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。
   子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。
                     ヨハネの黙示録 11章:19節a、12章1-5節

契約の箱(影)とマリア様(実体)の関係や、マリア様が終末論のひとつの鍵であることは前回述べましたが、ここではその2つのイメージが続けて出てくるだけでなく、エバを思い出させる表現(「子を産む苦しみ」)まである。ここの「一人の女」は、カトリックの解説によると、「旧約と新約の神の民全体を表すという考えが一般的である」そう。女が産んだ男の子は紛れもなくイエス様のこと。つまり、マリア様が旧約と新約の神の民全体を象徴する存在として描かれている貴重な聖句です。彼女を理解することが終末論にとってどれだけ重要であるかがわかります。

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