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フィリピンの産業、国のあゆみ(何年に独立したか、いつからいつまでどこの植民地だったかなど)を教えて下さい。
出来るだけわかりやすくお願いします。

  • 質問者:匿名
  • 質問日時:2013-07-14 15:35:17
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フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んでベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラ。国名は16世紀のスペイン皇太子フェリペにちなんでいる。
目次

1 国名
2 歴史
2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 イスラームの流入
2.4 スペイン植民地時代
2.5 第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代
2.6 第二次世界大戦と独立
2.7 再独立
2.8 マルコス独裁
2.9 エドゥサ革命
2.10 アジア通貨危機以降
3 政治
3.1 元首・行政
3.2 立法
3.3 司法
3.4 憲法
3.5 フィリピン紛争
4 軍隊
5 国際関係
5.1 米比関係
5.2 周辺諸国関係
6 地方政治
6.1 地方政府
6.2 地方行政区画
7 地理
7.1 気候
8 経済
8.1 概要
8.2 農業
8.3 財閥
8.4 鉱業
8.5 工業・貿易
8.6 観光
8.7 経済成長率
9 交通
9.1 航空
9.2 鉄道
9.3 道路
9.4 海運
10 国民
10.1 民族
10.1.1 フィリピン人
10.1.2 タガログ族
10.1.3 ビサヤ族
10.1.4 モロ族
10.1.5 華人
10.1.6 メスティーソ
10.1.7 少数民族
10.2 人口
10.3 言語
10.4 宗教
11 教育
12 文化
12.1 食文化
12.2 文学
12.3 世界遺産
12.4 祝祭日
13 スポーツ
14 災害
15 参考文献
15.1 歴史
15.2 政治
15.3 経済
15.4 文学
15.5 環境
15.6 国際紛争
16 脚注
17 関連項目
18 外部リンク

国名

正式名称は、Republika ng Pilipinas (フィリピノ語: レプブリカ ナン ピリピーナス)、Republic of the Philippines (英語: リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピノ語)、Philippines(英語)。

日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピン、ヒリピンという表記もなされていた。漢字では、比律賓と表記され、比と略される。

国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者によってラス・フィリピナス諸島[2]と名づけられたことに由来する。
歴史

詳細は「フィリピンの歴史」および「バシランの歴史(英語版)」を参照
先史時代
タガログ人の男女

フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。

洪積世中期の遺跡として、ルソン島北部のカガヤン渓谷にあるリワン遺跡が発見されている。そこからエレファス(古代象)、ステゴドン(ステゴゾン象)、ライノセラス(古代犀)などの絶滅種の動物化石が出土し、他の出土品ではチョッパー(片面礫器)、チョッピング・トゥール(両面礫器)、フレーク・トゥール(剥片石器)など多量に発見されている。カガヤン渓谷に「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている。[3]。 
古代

紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、当時すでにカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。
イスラームの流入

14世紀後半にイスラム教が広まった。中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7,000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。
スペイン植民地時代

詳細は「フィリピン総督領」および「:es:Capitanía General de las Filipinas」を参照
フィリピンの独立指導者ホセ・リサール

西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)がヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したが、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。

スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。

ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。

支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。彼は、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド[4]らの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。 1899年6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされた(第一共和国)。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までをいう。
第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代

詳細は「フィリピン独立革命」および「米比戦争」を参照
米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』

米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカに渡る。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。

フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。 フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[5]。

その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領(英語版)が成立。1934年アメリカ議会はタイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルス(英語版)に移行したが、アメリカはフィリピンに膨大な利権を確保し続けた。
第二次世界大戦と独立

詳細は「フィリピンの戦い_(1941-1942年)」および「フィリピンの戦い (1944-1945年)」を参照

第二次世界大戦中の1941年12月に、米軍との間に開戦した日本軍が米軍を放逐しマニラに上陸した。敗走を続けるアメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡し、日本軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。

日本はフィリピンを軍政下においた後、1943年にラウレルを大統領として、フィリピンを独立させた(第二共和国)。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。しかし、ラウレル政権は必ずしも日本の言うことを全て聞き入れた訳ではなく、地主支配の維持を図ったために、アルテミオ・リカルテのようなフィリピン親日派からも離反が相次ぎ、新たなる親日組織マカピリが設立された。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。日本軍はこれら抗日ゲリラを鎮圧することができず。日本軍が実質的に支配できていたのはフィリピン全土中の3割程度に過ぎなかった。

その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルス(英語版)が再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[6]、マニラに20棟あった16世紀〜17世紀に作られたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。
再独立

1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年に、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継いで、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国(英語版)再独立した。

冷戦下では地主支配打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン

  • 回答者:匿名 (質問から5時間後)
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この回答の満足度
  
やや参考になりました。回答ありがとうございました。

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