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質問

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よく「生と死」を語るときに
「生きているのじゃなくて、生かされている」と言う人がいます。

水や食物や家族、友達など・・・。
でも、それって、自ら水を飲んだり、自らモノを食べたりしている訳で
「自分のチカラで生きている」んじゃないんですかね?

色んな本にも書かれてあるようで
影響された方の発言なのかもしれませんが
どうも、人は生かされていると言う人の言葉に
「なるほど。人って(人に限らず)生かされているんだなぁ。」と思える説明にであったことがありません。
「人は生きている」っていう言い方でもいいんじゃない?と思うのです。

「人は生きている」
「人は生かされている」

どちらでも間違ってはいないとは思うのですが

『人は生きているんじゃなくて、生かされているんです』と
「人は生きている」ことを否定してまで「生かされている」思われる方。

そう思うのはなぜですか?
あまり賢くはない方なので
具体的な例をあげていただけると、わかりやすいので助かります。

  • 質問者:ラキ
  • 質問日時:2009-01-02 08:56:13
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こう思うときがあります。
心身の状態が良い時は自らの力で生きていることを実感します。
良くないときは「何故、自分は生きているのだろう」と思うのですが
そんなときに自ら死ぬ行為をしなければ死ねない→「何かのしがらみ」に生かされているのだろうな、と
思うのです。
私の場合ですけどね。

  • 回答者:うむ・・・ (質問から9時間後)
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ほぉぉ。なるほど~~~。
確かに。今の自分の状態では「生きている」としか思えないのですが
「生かされている」という人は、心に何か抱えているのかもしれないですね。

死を願うのに、死なせてくれない。自殺しても死ねずに終わった。とか。
そういう状態なら、「自分は何かに生かされている」と思わざるを
えないのかもしれませんね。

自殺未遂で終わって死ねずにいる人が、ごまんといる世の中。
そういう意見が出てきてしまうであろう人も、それだけいるってことですね。
はじめて、納得のいく答えを聞くことができました。


ありがとうございました。

並び替え:

いくら生きる気まんまんでも、体の機能が停止すれば死にますよね。
若いときや健康なときはそんなこと考えもしませんが、自力でどうこうできなくなる状態もいつかくるわけですから。
だからやっぱり、生かされてるんだと思いますよ。
自分の体のどれ一つとっても、自分で作ったものではありませんよね。
ついでに言えば、食べ物だって。自力で作ったもの(調理するという意味ではない)は一つもない。自然か動物の恵みですし。

  • 回答者:感謝 (質問から14時間後)
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「生かされている」のだとすれば
たとえば人間は『0歳で産まれて、必ず90歳で死ぬ。』とか
そういうのであれば「生かされている」とも感じれるのですが・・・。

でも、そうですね。
生活の全てを要介護で生きている人は
ある意味、介護者に「生かされている」のかもしれないですね。

「食べ物」ですが
いくら目の前にヤマのように自然の恵みがあったって
それを食べなければ、生きれない訳で。
「食べる」のは生きようとしているためなんじゃないでしょうか。

そもそも野菜や果物や魚や肉や・・・
それって、人を生かすために作られたものなんですかねぇ?

「自分の体」は、自分では作ってはいませんが
それと「生きる」「生かされている」とは話が直接は結びつかないような・・・。
誰が部位や形を作ったのでしょうか?
それは母親でも父親でもないように思うのですが・・・。

遺伝子? だとすれば、それはそもそも「自分」なのでは。

神様?  だとすれば、神様も、誰に生かされている?

話が脱線して、ややこしくなってしまいました。このへんでやめておきます・・・。

自分の意思で生まれてくるのではないので、
この世に生を受けたことが、生かされているの根源です。
自らの意思で食したり、飲んだりして「生きる」為の努力できるのも、
この世に生まれた(生かされた)からこそです。

  • 回答者:匿名希望 (質問から9時間後)
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そうですよね。
だから普通なら「生かされながら生きている」って言いますよね。
それならわかるんです。

けどなぜ、「人は生きているんじゃない。生かされているんだ」という
言い方になるのでしょうか。
私たちが「生かされているだけ」だとすれば怖くないですか?

両方正しいと思います。

両親がいてこの世に生を受けました。
今は自分の力で生きていますが、あかちゃんや子供の頃は
親の力と保護の下にいきてしました。

そう考えると今時分がここに存在するのは、両親のおかげです。

ゆえにある意味生かされていると考えます。

  • 回答者:匿名希望 (質問から3時間後)
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私も両方正しいと思ってます。
けど「人は生きているのではないのです」っていう言い方をされる人が多いので
その理由が聞きたくて質問したんです。

「何も無い無人島でひとり」の状態を考えてみれば分かりますよ。
そのままでは、水も飲めない、食べ物もない。

水道通してもらって、電気発電してもらって、野菜や食べ物など
作ってもらって、お互いちよっとずつ、支えあっているわけですね。

  • 回答者:? (質問から2時間後)
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水道を通してもらうように頼むのは自分が「生きる」ためですよね?
神様が「ほら、生きつづけなさ~い」と瞬時に水道を作り出すわけではないですよね。

食べ物も、食べれるものと食べられないものを
見極めながら「食べれるもの」を探すのは自分ですよね。

砂漠にポツンといきなり置かれたとしても
「生きる」ために歩き出すのは「自分」ですよね?

色んなものに支えあいながら「生きている」じゃ、ダメなんですか?
それでも「生きている」のではなくて「生かされている」のですか?

親がいたから今の自分が生まれてきたんです
そりゃあ事情があって、片親の方もいるでしょう
でも人間1人だけでは生まれてくる事はできません
その事が生かされているという考えの根源ですね

  • 回答者:匿名 (質問から2時間後)
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母親も、「この子を生かせよう」としてそろそろここはキツイだろ~。と見計らって産み落とすわけではなく・・・。
逆に「産まれてこなくてもいい!」と思えば、ずっとおなかにいさせれる訳ではないですよね?

赤ちゃんがおなかのなかを窮屈に感じて(そのままでは死んでしまうことを察知して)
自ら外に出ようと「生きよう!」として産まれているのでは。

そしてなぜ、「産まれてすぐ亡くなる子」が存在するんですかね?

生かされているのなら
生きれると思うのですが。

人間は自分の意志で死ぬことが簡単に出来ないよう
死を恐れるようにプログラムされているから。

  • 回答者:respondent (質問から2時間後)
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うーん・・・
「生きている」と考える人も
「生かされている」と考える人も一緒じゃないですかねぇ。

「生かされている」からこそ
自ら命を絶つ。という発想もあるかと思います。

「生きている」からこそ、生きるのを辞める。と同じで。 どっちも同じような・・・。

人間が生まれてきたのは自分の意思ではなく、自分以外のものの意思によってこの世に出てくるわけです。
それを考えると、いま生きていることも「生かされている」ことになります。
どちらかというと、私は、「生かされている」と発想しているほうです。

  • 回答者:匿名 (質問から48分後)
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自ら「生きている」訳ではない。と。

食べ物を「食べさせられている」
排泄を「させていただいている」
お風呂に「入らされている」
誰かを好きになっても「愛させてもらっている」

といった感じなのでしょうか。

哲学ですね。
生あるもの生きる事は権利であり、生きる事を楽しむ事は与えられたよろこびでもあります。
生きる事も生かされることもどんな理由付けも無いと思います。
寿命という限られた時間の中でおのおのが生きる事を楽しんだら良いんじゃないでしょうか。

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ですよね。
だからこそ、なぜ「人は生かされている」と言う人は
「人は生きているのではない」と、その部分を否定するのかが、いつも疑問に思うのです。

そういう言葉を見聞きしてるのは、1人や2人じゃないんですよ。
今まで何度も色んな場所でそういう意見を目にします。

「人は生かされながら生きている」でいいと思うのですが・・・。

なぜ主体的な部分を否定するのでしょうね。
それが私の今回の質問の部分です。

具体的に「人は生きているのではない」の理由がないので
みなさん、何か同じ本でも読んで影響されてそのままの載っていた一文を
引用しているだけなのかな~?なんて思ってます。

「生かされている」というのは仏教の根底にある生き方です。
クリスチャンでも、基本的には折に触れて時と場所と恵みを神から授かったことに感謝の祈りを捧げるというのがスタイルですね。

「生かされている」という姿勢には、神または自然に愛する恐れや敬いと謙虚さがあります。
科学が発達して、タブーが少なくなった今日では忘れてしまいがちな考え方ですが、神社仏閣に行って願掛けをすることもあるならばたまには「許されて生きている」という視点でわが身を振り返ってみるのも良いとおもいます。

「生きている」というのは主体的で、確かに自分で職業を選択し、働き、自分の力で生きていますが努力だけではどうにもならない場面に出くわすときがきます。

才能の差、紙一重の運など、・・・・その時には神頼みしたり、自分に才と運に恵まれなかったと諦めるしかないでしょう。
「諦観(あきらめ)」も仏教の根底にある考え方で、あきらかに(己を)見つめるという意味だとか。

人生を精一杯自分の力で生きてみてかなわないことに沢山出会い、結局欲張らず、威張らず、足るを知る生き方として「生かされている」という考え方に人はたどり着くのではないかと思います。

「生きている」か「生かされている」か迷いながら生きている過程を人は【人生】というのかもしれませんね。

===補足===
>「人は生かされながら、生きている」

その生き方でいいとおもいますよ。

「他力本願」という親鸞の言葉も、只無気力に運まかせ・人まかせに生きるという教えではないと思います。
自分で積極的に生きていなければ、助け合うという考えも気持ちもでてこないでしょう。

まず「生きる」という意識の中で生活しながらも「許されて生きる」という謙虚さを心の片隅にもって生きた方が、満足した生き方ができるのではないかと思います。

時間があれば、富田常雄の「姿三四郎」の中を読むと「生かされている」という場面が感動的にかかれているのでお勧めです。
自分の柔道が才能と努力で強くなったと得意になったときに、師の矢野正五郎に「強くなりすぎた。死ね!」といわれて池の中に飛び込み一本の杭にしがみ付きながら夜をあかし、「生かされている」ことを悟るのです。
あらすじ→http://ameblo.jp/cm116832321/entry-10023342542.html

  • 回答者:匿名 (質問から40分後)
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丁寧な説明ありがとうございます。
確かに神頼みもしたことありますし、運っていうものもあると思います。
運命っていうのもあると思います。
「人は生かされながら、生きている」なら、納得できるんですけどね。
なぜ主体的な「生きている」部分を否定するのかが不思議なんです。
何かしらの宗教をやってる人こそ
「生かされながら」生きることの大切さって、わかってると思うし
わかりながら生きていって欲しいと思うのですが・・・。

「人は生きているんじゃない!生かされているんだ」と言葉を見聞きすると
なんか、寂しく思ってしまうのです。

============
補足、ありがとうございます。
「姿三四郎」あらすじ読みました。
タイトルは知ってましたが、こういう話なんですね。
興味深いです。探して読んでみようと思います。
・・・原作は難しそうなので、とりあえず漫画の方から。

読み終わったら、少しは人として成長しそうですね。
ありがとうございました。

だから・・・人間が 生きていくために 最低限必要なものって 何ですか?
水・食料・太陽の光も、男女がそろっていなくては、次世代が 出来ない 人類消滅です。でしょ? 水は勝手に存在しますか? 雨が降ってくれないと。太陽・・・あなたは自分で作れますか? 食料・・・あなたは自分で(全て)作れますか?・・・・・・・ね! 全ての自然物は この 地球上で 自然の中で 「生かされている」 のですよ!! 自然に「感謝」しましょう! 大事にしましょう!

===補足===
自ら水を飲んだり、自らモノを食べたりしている訳で
「自分のチカラで生きている」んじゃないんですかね?
生れ落ちた時に そばに誰もいなければ 確実に死にます。(どんなに エライ人でも 生まれてすぐに 飲んだり、食べたり 出来ないと 思うのですが・・・御釈迦さんでも!)

  • 回答者:おもいあがり (質問から26分後)
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自然に感謝してますよ。雨や太陽に感謝してますよ。
料理は作れません・・・; 食料には感謝してます。
色んなものを授かり助けられ、感謝しながら私は「生きている」んです。

生まれ落ちたときは、誰にでもそばには母がいるかと。
すぐに捨てられれば死ぬこともあるでしょうが、
人は何かに「生かされている」のだとすれば、
生まれたときにまわりに誰もいなくても、無条件で「生きれる」もんなんじゃないんですか?

投稿者さんの言うとおり、誰もいなければ死にますよね。
死んでしまうってことはイコール
チカラつきるまで「人は生きている」のだと思うのですが???? 間違ってますか?

何かに「生かされている」のだとすれば
なぜ産まれてすぐ命を落とさなければならない。ということがあるのでしょうか。

はっきり言ってどちらも間違いではないと思います。人は生きていると思う方は積極的な生き方をしてる人と思います。でも、それよりも一回り大きく考えた物が、生かされて居ると言う事です。人によって、無神論者、反対に神を信じる方、二通り有ると思いますが、私は神様は、間違いなくいらっしゃると思ってるものです。その考えに基ずくと、自分で生きていると思っている人も、神様にそういう生き方を、体験させて頂いていると言う事です。例えば、大きな地震とか災害も良くありますが、そのときも同じ災害に遭いながら、生き残る人、残念ながら亡くなられる方、色々有ります。元気な方が生き残るわけでは有りません。それは、神様が、天命を全う人に関しては、あの世にお導きになり、まだ、今生で、やるべき事を残してる人に関しては、まだ、生をお与えになっていると言う事で、人は、神様に生かされていると言う事になると思います。

  • 回答者:匿名希望 (質問から13分後)
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私も、どちらでも間違いではないと思ってはいます。
なので、ひっかかる点は「人は生きているのではない ---」という前半の部分です。

その一言って、必要なんですかねぇ・・・。

災害の話は、ちょっと酷ですよね。
天災ならだれも恨めないけど、神様が生死を決めているのなら
神様恨まれますよね。全うせずに命を亡された方、または残された方には酷だと思います。

人口が増えすぎ。との理由で
排除的に、戦争や天災で人口を減らしているのであれば
神様って愚か者で残酷だと感じますが。
神を信じて、「人は生かされている」と考える人間って、命をなんとも思わないんですかね・・・。

たくさんの人が一気に死んだら「あ、神様がまた消したな」っていう感覚なのかな。

奢るな暮らし。謙虚になれということでしょう。

  • 回答者:j (質問から8分後)
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謙虚。ですか。

友達や家族が助けてくれたり、生き物を食物として
生き続けることができる。だからまわりに全てのもの感謝して、自分の命を大切にして
人は生きている。ってことでもよくないですか?

「人は生きている」でも、充分謙虚な考えはできると思います。

心身の状態が良い時は自らの力で生きている。
良くないときは生かされている。じゃないかな

  • 回答者:sooda (質問から2日後)
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