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カントの可能性の中心を担う「調和し得ない緒力の束」とはどういう意味でしょうか?

ウィキペディアの「アルチュール・ランボー」の項目にそのようなことが書かれているのですが……。

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2009-02-23 17:31:17
  • 0

大学で教えていた頃、カントも範疇でしたので、答えます。

まず、カントには大きく3つの批判書があります。
 「純粋理性批判」を第1批判と呼ばれます。
 「実践理性批判」を第2批判と呼ばれます。
 「判断力批判」を第3批判と呼ばれます。

さて、この3つは、範疇が違うように見えますが、それぞれが有機的に結びついています。また、若干?の自己矛盾も見られます。

どの批判書の考え方からも導かれます。

第一批判から、答えようとすれば、
●カントが提唱する「人間がもつ認識的才能と制約」に起因する、考え方とも取れます。
人間自身は 自分の経験以上を知ったり、理解したり出来ないので、その中でしか創造できない。自分の理性で自分の才能を縛っている。

そこから、他人の思考は、自分の外部のものとして、正確に読み取れない。そこで、他人の思考を理解できないもの、調和できないの物としてしまう。

第二批判から、答えようとすれば、(ややきついですが)
義務と責任は道徳的法則から生じる。それらは、快楽と義務を伴う。義務は、威嚇ではなく法則を定めるのみである。よって、快楽つまり、人間の自由を規定できない。そこから、人間は自由な状態、調和が保つことは難しいのである。

第三批判から、答えようとすれば、

===補足===
<ごめんなさい、途中で切れてしまいました。>


第三批判から、答えようとすれば、



●まず、第九節の
「美は、概念にかかわりなく普遍的に〔すべての人に〕快いところのものである。」から考察しましょう。

美の判断における快は、内側からわき上がるものであり、普遍的な美的コンセンサスも存在するが、主観的美的感覚もある。よって、普遍的美意識以外には、調和が起こりにくい。

●次に、第二十二節の「美とは、概念を用いずに必然的適意の対象として認識されるところのものである。」から考察しましょう。

前者と似ていますが、
主観的普遍性から、カントは人間における「共通感覚」の存在を主張する。
人間に共通な認識状態の調和状態であるが存在する。
この存在自体は認める。しかし、そのためには、人間全体に、もともと(ア・プリオリと言います)、主観な美的認識の調和性を持っている必要がある。

果たしてそうであろうか?つまり、逆説的に、調和性を持ち合わせていることは難しい。との結論に達する。


以上が、質問への回答ですが、更なる質問は補足にどうぞ。

カントは自己矛盾もしていますし、私の回答もそれに沿ってやや矛盾していますが、この3つの批判書から演繹される結論はこの通りです。

読んでいただいて有難う御座いました。

  • 回答者:カントは偉大 (質問から7日後)
  • 1
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

おぉ!!? ありがとうございます!!!
こんなに難しいことなんですか……。
理解しようと頑張ってみます! 本当に有難うございました!!

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