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平安時代の東市ち西市では売ってる商品が決められていたらしいのですが、なぜどちらかにしか売れないようにしたのでしょうか?
調べてもでてこないので知っているから教えてください。

  • 質問者:モバイルメール
  • 質問日時:2010-09-17 16:59:27
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そうでないと、生活ができなくて、
争いの元になったからです。
だから東と西で商品を分けたのです。

  • 回答者:どうしよう (質問から3日後)
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それはね
そこに生かせるため

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東西の市は半月交代で、月の前半は東市、後半は西市が開かれていて東市には五一、西市には三三の店が存在し、米、塩、針、魚、油、櫛などはどちらの市でも買うことができた。しかし布、麦、木綿、木器、馬、馬具などは東市にしか取り扱っている店がなく土器、牛、綿、絹、麻、味噌などは西市の専売品となっていて紆余曲折を経て、両市の間にはこうした棲み分け関係ができていったということです。

  • 回答者:匿名 (質問から2日後)
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一応表向きは当時の法律がそうと決めていたから、ということで終わってしまいますが、その法律の裏側と当時の社会情勢が原因です。

知って通り当時の日本は大陸関係の国々の文化を取り入れ都市建設そのものまで大陸を参考にしました。そして当然経済流通機構である市場のモデルも参考にしたのですが・・大陸と日本では扱う商品も違うのにそのまま取り入れてしまったのでいざ実行に移す段階で大混乱になったのです。当然扱えない品物も出てくるのにミスでそうなったとはとても言えません。そんなわけで理由のない法律で商品の棲み分けを行いごまかしただけです。

また西市は当初から治安が悪くその後もどんどん悪化していき、扱える商品も自然と淘汰されてしまいました。このため結果的に扱える商品が実質的に決まってしまったのです。当時の社会でとられにくいものが西市に集まり、それ以外は東市に集まりました。

色々ありますが要約するとこんな感じですね。

  • 回答者:歴史学者志望 (質問から7時間後)
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すみません、わかりません。

  • 回答者:匿名 (質問から5時間後)
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