選択肢でだけで答えれば 1になります。
食事療法が必要になる日がくることもわが身に無きにしも非ず。
私は介護の仕事をしていて
職業柄、人生の末期を過ごされる方と日々接していて色んなことを思います。
寝たきりに近い状態で 老人性うつ病や統合失調症の方、長い人生のうちに悲しいとだけでは表現できないような その方だけにしかわからない数々の出来事を重ねてきた終焉の疲れ。
介護の規定なんかがたくさんあり、してあげたくてもできない事、
決められた最長でも1時間半しかない時間内に、ちょっとプラスしたいわゆる親切を行えば、違反になったり 時間が足りなくなり、次へ行くのに遅刻したりで、介護プランに書いてある内容ができなくて「仕事をさぼった」となってしまうことが多々ありますが
本当に必要としておられることは、ソバにいてじっと話をきいていたり
塩分制限のある中、少しでもおいしく食事を提供するために時間をかけて工夫した料理法で作る、などそういうことだと思い、いつもケアマネに怒られながらしています。
長くなりましたが
まずい病院食のようなものになるレシピでも
最大限に工夫すると 驚くほどおいしくなったりすることを 私は知っているので
まずい食事で長生きするという感じはありません。
また、お知り合いの若くしてお亡くなりになったのも その方が選んだわけではなく 痛恨の思いや無念を残しお亡くなりになられたことと存じ上げます。
その姿などをご覧になられたら、人生を考えてしまいますよね。
自分の人生は自分だけのために使うこともまた選択肢のひとつで
本当の生き方なのかもしれないなと思います。
しかし、守るもの、守りたいものができると
人間は弱くなるのかもしれません。
弱いという表現は差し障りがありますが
弱い人は見えない強さの裏返し。
私には そういう生き方を選び最後まで精一杯長生きし命を真っ当する人たちがとても愛しいです。
ときどき、「痛い・・くるしい」と言いつつもただ生きているだけに見えるおばあちゃんなんかを見ていて
「家族や子供のためにだけささげて 病気に苦しみ、やりたこともできないまま ・・この人の人生はいったいなんだったんだろう・・?」
そう思って哀しくなるときがあります。
しかし、私も、主人や子供、いろんな愛しいものを得たからには
いつか動けなくなろうと
彼女たちのように 最後までありたいです。
生きてるからには 生きてるだけで、見えない部分で何かの役にたっているというのが
うまくいえないけれど 思うところだからです。