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第4代の世宗は有能だったのでしょうか。

◎朝鮮はどういう国だったんですか?

まず李成桂は、高麗時代の特権階級であった貴族・仏教寺院を徹底的に弾圧しました。ソウルには仏教寺院を作らせず、僧侶は最下層の賎民(せんみん)に落とされました。李成桂が信頼したのは科挙官僚たちで、貴族・寺院から没収した土地を官僚に支給しました。これを科田制といいます。官僚には文班と武班(軍人)があり、あわせて両班(ヤンバン)と呼ばれますが、文班が上位に置かれました。日本がサムライの国であるのに対し、朝鮮は両班の国です。朱子学が科挙の試験科目となり、両班たちには大義名分論・華夷(かい)の別が叩きこまれました。「華」とは明・朝鮮、「夷」とはモンゴル・倭人のことです。モンゴル支配の反動で、明にあこがれたのです。



ここで問題が生じます。朝鮮語は中国語とは文法も発音も違い、むしろモンゴル語や日本語に近い言葉です。そこに明と同じ科挙を導入したため、官僚たちは中国語(漢文)で文章を書くという習慣が固定したのです。漢文の読み書きができない一般民衆は、科挙に合格するはずもなく、結局はエリート官僚である両班が子どもに英才教育を施して科挙に合格させ、両班の特権階級化が進んだのです。これを嘆いた4代国王の世宗は、民衆のために朝鮮語の発音を表記する訓民正音(ハングル文字)を制定しますが、両班はバカにしてこれを使いません。



高級官僚のポストをめぐる両班の競争は激烈で、一族・同郷ごとに派閥を形成して、他派閥との間で足の引っ張り合いをする党争が果てしなく続きました。日本では織田信長や豊臣秀吉が台頭した実力主義の時代、朝鮮では両班が派閥抗争に明け暮れ、倭人ごときの国内事情には興味さえもたず、気がついたときには豊臣秀吉の大軍が上陸を始めていました。



この、朝鮮でいう壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱でソウルが陥落し、朝鮮国王は明に出兵を要請、明の万暦帝の軍隊と秀吉軍が10年に渡って戦い、国土は荒廃しました。亀甲船(きっこうせん)という大砲を装備した軍艦を投入して日本軍の補給を絶つことに成功した李舜臣というすばらしい軍人が活躍しますが、彼も党争に巻き込まれて失脚。秀吉の死によってようやく戦争は終わります。その後遺症から立ち直る前に、今度は北方から清(満州族)が攻め込んできます。



ホンタイジが大清皇帝として満州で即位したとき、式典に参列した朝鮮の使者は三跪九叩(さんききゅうこう)の礼(土下座)を拒否しました。「我らは大明皇帝にしか頭を下げぬ」というわけです。これが朱子学、大義名分論です。翌年、ホンタイジは朝鮮に侵攻、再びソウルが陥落します(丙子の胡乱へいしのこらん)。朝鮮国王が引き出され、三跪九叩を強制されます。こうして朝鮮は、清の藩属国となりました。しかもそのあと、助けに来てくれるはずの明が清に征服されてしまう…



◎ショッキングな展開ね…

朝鮮の両班たちは、清に朝貢を続けながら、腹の底では満州族の辮髪を軽蔑し、明が滅んだ今、中華文明を保っているのは朝鮮のみ、朝鮮国は「小中華」であると誇ります。「わが国は小中華、他国はすべて夷狄(いてき)、夷狄から学ぶことは何もなし」。この傲慢な思想が朝鮮の近代化を決定的に遅らせました。19世紀、黒船来航に驚いた日本人は明治維新を決行しますが、朝鮮は眠りつづけます。その結末が、1910年の日韓併合です。



日本の敗戦後、半島の南はアメリカ、北はソ連(ロシア)の力で独立を回復しました。韓国と北朝鮮です。南ではアメリカを、北ではソ連を賛美します。ちょうどモンゴル支配のあと、明王朝べったりになったのと同じです。さらに、ソ連崩壊後の北朝鮮が、「正しい社会主義を守っているのはわが国のみ!」といっているのは、「小中華」を唱えた朝鮮王朝の両班とそっくりですね。

(050704更新)
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/korea.htm

  • 質問者:匿名
  • 質問日時:2012-06-03 15:10:26
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それがソースじゃ何も分からんし都合のいい歴史解釈も見え隠れ・・まあどうでもいいです。

  • 回答者:朝鮮は眠りつづけますだと、、 (質問から49分後)
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参考になりました。回答ありがとうございました。

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