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ソ連の崩壊原因はチェルノブイリだったのでしょうか。


モスクワ支局長・佐々木正明 シャラポワとパンクバンドの未来
2012.10.14 03:03 (1/4ページ)
 開会式の入場行進でロシアの旗手を務め、笑顔で手を振るテニス女子のマリア・シャラポワ=27日、五輪スタジアム(共同)

 今年、「生涯グランドスラム」(テニス四大大会制覇)を達したマリア・シャラポワが、祖国ロシアの代表になることを心から喜んだのは、ロンドン五輪の旗手の打診を受けたときだった。快挙を成し遂げる6月の全仏オープンの大会中に指名を伝えられ、「幸せの極地に達した」とさえ語った。

 今年で25歳。6歳で米国に移住し、人生の大半を自由と民主主義の国で過ごした。英語に堪能で、今もフロリダに本拠を構える彼女が幼少期の記憶しかない国を強く意識しているのは、自分の人生をなげうってまでも挑戦を支えてくれた両親を思ってのことだろう。

 実はシャラポワは、この四半世紀に揺れ動いた歴史の歯車が少しでも狂っていれば、テニスとは出合っていなかったかもしれない。初の五輪で露代表となったことも運命としか言い表せない。ゴルバチョフ元ソ連大統領が「ソ連崩壊の真の原因」と語る災禍が彼女の人生を大きく変えていたのだ。

放射能汚染が変えた人生

 父母の故郷はベラルーシ南部の中都市ゴメリ。1986年4月、約100キロしか離れていないウクライナ・チェルノブイリで原発事故が起こる。直後に赤ちゃんを授かった2人は放射能汚染を恐れ、逃げるようにシベリアの地にたどり着いた。シャラポワは石油精製業の街で産声を上げた。


 そこからは引っ越しの連続だった。父は家族を養うために懸命に働いた。シャラポワは4歳の時、南部のリゾート地ソチでテニスを始める。折しも、新生ロシア誕生の立役者、エリツィン大統領の趣味で、国中でテニスブームがわき起こっていたころだった。

 93年、モスクワのイベントで元女王のナブラチロワに素質を見いだされ、名選手を育てることで有名なフロリダのボロテリー・テニスアカデミーでの育成を勧められる。父はここでも大決断をした。

 この時期、多くのロシア人が国を捨て外国へ去っていた。父娘が大西洋を渡ったとき、所持金はたったの700ドル。父は皿洗いをして稼ぎ、レッスン費を賄った。両親の期待に応え、シャラポワは女王への道を駆け上がった。

「プーチンを追い出して」

 シャラポワが生まれる5年前の82年、エカチェリーナ・サムチェイビッチはモスクワで生まれた。

 今年2月、ロシア正教の総本山、救世主キリスト大聖堂で、過激なライブを行ったパンクバンド「プッシー・ライオット」のメンバーとなる女性だ。サムチェイビッチは「マリア様、プーチンを追い出して」と訴え、フーリガン(暴徒)罪で起訴された。その後、言論の自由や政権の強硬姿勢をめぐり、大論争が起こった。



 幼少期、サムチェイビッチは勉強が得意な真面目な女の子だった。しかし、彼女の人生にもソ連崩壊前後の混乱が影を落としていた。科学者の父親は大学を追われ、職探しに奔走。母親も懸命に働いたが、生活は困窮した。父親は「娘はこの国が壊れていく様をつぶさに見た。その体験が、自分の人生への強い意識を植え付けたのだと思う」と語る。

 19歳の時、母が亡くなり、父娘2人となる。サムチェイビッチは大学卒業後、プログラマーとして軍事企業に就職。まもなく極東への転勤が打診されたが、父親が「国の外れに出すわけにはいかない」と反対し、結局、退職した。

 暇を持て余したサムチェイビッチはリベラル系団体の活動に参加するようになった。関わるうちに、「市民から民主主義の権利を奪っている」と批判を受けるプーチン大統領への憎悪を深めていく。大聖堂で過激ライブを行ったのは、ロシア正教への批判からではなく、大聖堂が「宗教を利用して国を支配するプーチン政権」のシンボルと映ったからだ。

ソ連を知らない世代の台頭

 多宗教、多民族国家であるロシアには今、世代間ギャップという新たな社会の溝が加わり、国民の間の分断がさらに複雑化している。プーチン政権のロシアとは、さまざまな価値観を持つ国民がなんとか共存し、統一を維持している国家ともいえる。
シャラポワとサムチェイビッチは今年、最も脚光を浴びたロシアの女性たちだ。ソ連末期に生まれた「時代の落とし子」でもある。片や外国暮らしが長く、片や大聖堂で過激ライブを決行し、その生き方は対照的だが、両者の生き方に価値を見いだす国民層は着実に増えている。

 ロシアでは、ソ連時代をまったく知らない世代が国の政治や経済を担っていく時代が、すぐそこまで近づいている。ポスト・プーチン時代のロシアがどのような国になっているのか。その予想は難しいが、彼女たちの歩む道は、多くの国民にも影響を与えてゆくことになりそうだ。(ささき まさあき)http://sankei.jp.msn.com/world/news/121014/erp12101403040002-n4.htm

  • 質問者:デジタル亀羅
  • 質問日時:2012-10-14 15:33:54
  • 1

原因のひとつかも?

直接のひとつが 記者会見のときの書類の見間違えらしい・・・

衛星国のひとつが 西側と接していて 東西間の解禁の記者会見のとき
間違えて、他の書類が混じっていて

夜遅くの会見で 明日から と、発言。

国境近くの住民が 一斉に・・・

と、TVで。

あとは ドミノだおし。

===補足===
その国の 責任者

検問に群衆が押し寄せ 壁の崩壊 と、呼ばれる始まり。

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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

誰がみまちがえたのか。

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直接の原因ではないと思いますけど、1つの要因になったことは確かだと思いますね。

軍拡競争で経済がボロボロに為ったのが主因であり、又社会主義が実現不可能で妄想にすぎないと

言うところでしょうか。

  • 回答者:匿名希望 (質問から6日後)
  • 1
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

結果のひとつだと思います。原因は共産制度そのものです。人間のというよりいきものの確立条件に適合しません。

  • 回答者:匿名 (質問から19時間後)
  • 1
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

原因の一つだと思います。
元々衰退していて、それに拍車をかけた感じがします。
キチンとした対応が出来なかったので権力を維持出来なかったと思います。

  • 回答者:匿名 (質問から16時間後)
  • 1
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直接的原因ではありませんが、崩壊の速度を速めたのは事実かも知れません。
あれは一党独裁の軋みが生み出した事故であり、その軋みが大きくなり国を分裂させました。

個人的にはあの事故は、ソ連崩壊現象の「氷山の一角」だと考えてます。

  • 回答者:匿名希望 (質問から6時間後)
  • 1
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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