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大政奉還で天皇が江戸に移ったのは、なぜですか?
京都ではいけなかったのでしょうか?

平安から鎌倉になるときは、頼朝の本拠が関東だったからと思いますが、
天皇は京都に本拠があるのに、なぜ関西ではいけなかったのでしょう?

  • 質問者:よしのふ
  • 質問日時:2009-06-03 21:47:16
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いろんな理由が考えられます。

1.徳川意識を失墜させるため
慶喜は早々に恭順してくれたが、
下には反発をして、明治政府を認めない人もいた。
これらの反発を抑制するために、江戸城に天子を入れた。
(天皇は神で、逆らうのは、非国民であるという意識がある)

2.配置換え
戦争に負けると、敗者は、それまで地縁のある場所から、遠ざけられる。
徳川は、正確には敗者ではないのだが、勢力を殺ぐためにも、
別の場所に移す必要があった。
しかし、移した後で、誰が江戸を治めるかという点で問題が起きる。
江戸は100万都市で、大変魅力的だが、
薩長は連合軍なので、どちらかが所有するわけにはいかない。
そのために、天子を入れた。

3.よりよい懐柔政策
薩長連合軍の長は、藩主ではなく、藩士である。
そのため、薩摩幕府や長州幕府をつくる流れにはならなかった。
藩士が王になるわけにもいかず、
それ以前に連合軍なので、誰が一番と言うわけにもいかない。
なので、年若の天子を王とすることに決めた。
よりよい傀儡王になってもらうためには、
従来勢力から切り離す必要がある。
そのために、天子を江戸に連れてきた。

そういういろんな理由からかな、と思います。

  • 回答者:いろいろと (質問から16時間後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

明治維新の立役者には薩長の出身者が多かったからでしょう。
天皇を頂点に立て、京を都にすれば公家が一気に力を付け薩長の出身者を押さえ
つけてくるのが目に見えていました。そうなると新たに公家対薩長の争いが表面化
してきます。

新政府はこれを避けたかったのだと思います。

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江戸は、100万都市の最も大都市で人口が多かったというのこともあると思います。

それに、徳川が抑えていたその江戸に、天皇を据えるということが政治的な意味が大きかったのではないでしょうか。

幕藩体制である武家社会が崩壊したということと、天皇が治める近代国家というものをのを国民に知らしめるためであったと思います。

その目的のために、天皇を京都より江戸に移すということの意味は大きかったと思います。

  • 回答者:男はつらいよ。 (質問から33分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

江戸幕府300年の歴史が江戸を大きな都市に育て上げ
安定した世の中ゆえに 様々な物が発達し 既に日本の中心として発展して行ったため
拠点を移したのです。

  • 回答者:匿名希望 (質問から23分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

簡単に言うと、長い徳川幕府によって首都としての機能が完全に江戸に移ってしまっていたのが原因です。
当初は、大阪にしようと明治政府は考えておりましたが、江戸が首都としての機能が充実しているため、明治政府が江戸を「東京」と地名を変えることで話が落ち着き、地名の「東京」は「東の都」という意味として、「東京」を設置した時点で、事実上は「都」が二つにしたというわけで、それで京や大阪よりも首都機能が充実している江戸に天皇を移動したワケです。

  • 回答者:匿名 (質問から18分後)
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