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成田空港が開港したのが昭和53年だったでしょうか。建設計画となると、さらに遡って何年、何十年前かわかりません。当時の首都圏の様子はわかりませんが、成田は空港を利用するために都心に直で行ったことがないので、時間間隔や距離感がわかりませんが、都心の人はできるなら羽田の方が近いので便利と思っているのが本音だと思います。

上野から京成とか走っていて、さらに新たな都心から成田への鉄道アクセスを建設されているなど時間短縮を図っているようですが、多分1964年の東京五輪やその後の高度成長などで羽田が限界となったときに、第2の空港として成田になったと思うのですが、いや他に候補となる場所はなかったのでしょうか。成田に決まった理由がわかれば教えてください。

  • 質問者:soodaくん
  • 質問日時:2009-10-14 17:37:26
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当事、他に八街や富里にも候補地がありました
しかし激しい反対運動があり、御料牧場の跡地活用が可能となったので成田に決まったという経緯があります

  • 回答者:匿名 (質問から30分後)
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ご回答ありがとうございます。八街や富里も候補地ですね。北総を中心に計画していたのですね。御料牧場の跡地活用が可能になったので成田になったのですね。

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成田空港計画当時でも首都圏で空港を作れるほどのまとまった土地は無く、どこに作るにせよたくさんの土地買収が必要でした。その中でも成田三里塚ならその大半が宮内庁御料牧場跡地で、しかも周囲は戦後の農地解放やら開墾の農地で先祖代々の土地を買収すよりは土地収用が容易いと考えられたからです。ところがやってみたら皆さん御存知の通りで、空港反対運動に左翼ゲリラなど部外者も加わってにっちもさっちもいかなくなってしまいました。

信じられないかもしれませんが、成田は最初滑走路を5本持つ、ソウル、香港、シンガポールにも負けない超巨大空港として計画されていました。他にも成田と東京を結ぶ成田新幹線も一部着工していたし、歴史に「もし」はありませんが、全てが完成していたら状況は全然違っていたでしょうね。

  • 回答者:匿名 (質問から5時間後)
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ご回答ありがとうございます。当時もすでに空港を作れる土地はなかったのですね。成田三里塚は収用しやすかったということですね。5本滑走路があれば、ハブ空港として充分ですね。成田新幹線の話は聞いたことあります。

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