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坂本竜馬は、どのようにして、船を持つことができたのでしょうか。どなたかが、資金をだしたのでしょうか。

  • 質問者:fm
  • 質問日時:2008-11-08 19:28:39
  • 0

回答してくれたみんなへのお礼

坂本竜馬の船の件、大変勉強になりました。今後ともよろしくお願いいたします。

薩摩藩の資金援助です。
薩摩藩家老、小松帯刀と龍馬が始めて対面したのは、元治元年1864年の暮れ、大阪の薩摩藩邸です。二人は天保6年1835年の生まれで30歳だった。その時の、龍馬の率直な人柄に、帯刀は好感した。この後二人の活動と信頼の絆は築かれた。その時、龍馬は勝が開いた、神戸海軍操練所の塾頭を務めていたが、池田屋事件と禁門の変が起こり、それに塾生が関わっているという嫌疑がかかり、操練所も閉鎖される。その時、龍馬が西郷相談したところ、西郷から話を聞いた帯刀が、即座に塾生30人を薩摩藩で受け取り、その技術を生かせて薩摩藩お抱えで、長崎で「亀山社中」後の「海援隊」を作ったのです。ですから、資金を出したのは、薩摩藩です。

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最初の船は、長州藩からの援助(船籍は長州藩)
2艘目は、薩摩藩からの援助(回送中に沈没)
3艘目も、どこかの藩の援助(一番有名ないろは丸で、これも紀州藩船と衝突し沈没)

龍馬が設立した亀山社中(後の海援隊)自身が、薩摩・長州・土佐藩の援助で成り立ってました。
諸藩が表立って動けない運搬や武器購入などを行なう、便利な非公式機関的な
働きをしてました。

  • 回答者:知識人 (質問から27分後)
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坂本竜馬の海援隊に関して言えば、薩摩藩などの資金援助があったとされています。
これは、長崎などでの貿易や藩士以外の人材確保といった面が指摘され、今風に言うならば、国策会社やダミー会社、外郭団体的な面を持っていました。

つまり、薩摩藩などが表立って行えない貿易・取引の代行や、海軍近代化に向けて蒸気船を持ったものの運航要員の確保や平時の遊休に対する財政負担に苦しむ諸藩からの船舶の賃貸などといった、ある種の隙間産業的な行動によって隊の活動を維持しています。

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