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徳川慶喜をどのように評価しますか?
「家康の再来」「二心どの」「百才あって一誠なし」などと言われ、聡明であるが卑劣というイメージがある一方、大政奉還を決断し日本を内戦、分裂の危機から救ったという評価も受けています。どちらの慶喜像が正しいと思いますか?

  • 質問者:悩み中
  • 質問日時:2008-11-16 18:03:46
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回答してくれたみんなへのお礼

ご回答いただいた内容から見ると、卑劣の印象が強く、また何もしていないという評価もいくつかありました。
確かに、聡明というイメージの割には、実際には無能としか思えないような行動もいくつかあります。
ご回答ありがとうございました。

とても頭がよく時勢にも明るく徳川の時代はもう終わりということをよく理解していた人物だと思います。ただ組織のトップに立つようなカリスマがあって、統率力のある人物ではなかったと思います。トップに立つ人物というのは負け戦になってこそ最後には先頭に立って戦わなければいけないと思うのですが、頭が良すぎたのか先のことが見えすぎて多少の「無茶」や「冒険」ができなかったのでしょう。生まれる時代さえもっと前なら治世の将軍として歴史に残ったと思います。

  • 回答者:Sooda! くん (質問から6時間後)
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暗愚な人ではなかったと思いますが、幕末の才気煥発な他の人々に比べたら、
やはり見劣りはすると思います。
傑出して出てきた人と比べるのもかわいそうですが、
内戦にならなかっただけの判断は評価するべきかなと。
平凡な人だったと思います。

  • 回答者:お助けマン (質問から4時間後)
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悪いイメージが篤姫からはありますが、大政奉還したことは評価できる
進言を受けたからともいえるが、決断したのは彼自身である

  • 回答者:シゲ (質問から4時間後)
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薩摩・長州藩と戦で、兵力は幕府軍の方が多かったのにもかかわらず、錦の御旗を見た途端、朝敵になるのを怖れて、こっそり江戸城へ敵前逃亡しました。
篤姫や家臣に助けられて、生き永らえたので、情けない印象しか残りません。
部下に責任転嫁するタイプで、決断力が無いのでトップとして失格です。
「大政奉還」は小松帯刀などが働きのおかげで、慶喜は了承して行った過ぎませんし、「江戸城の無血開城」は、勝海舟に西郷隆盛との交渉を丸投げしています。
14台将軍の家茂であれば、最期まで大坂城に残って責任をまっとうしていたでしょう。

  • 回答者:匿名希望 (質問から4時間後)
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大阪城から逃げ帰った印象ばかりが先に立ち
頭脳明晰でも、将軍としては失格だと思います。

江戸を火の海にしなかったのだけは評価ができるでしょうが。

  • 回答者:匿名希望 (質問から3時間後)
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古流武術をやっている私としては、手裏剣使いに長けていた人物としか評価できません。
実際、どのような政治をやっていのか詳しいことは知りませんし、鳥羽・伏見の戦い途中で江戸に帰ってしまった本当の原因も不明ですし、大政奉還したことも正しいことをやったうちの一つなのか分かりません。
天皇に政治を返還しても、薩長が徳川にケンカを売る始末だし、戊辰戦争では関東から北海道までの東日本は悲惨な内戦状態になってしまっているし、北海道では榎本武揚たちが蝦夷共和国を作って独立しようとしていたしも、結局慶喜が政治をしなくても、徳川の誰がやっても戦争状態に入っていたことは間違いないでしょう。
天皇に政治を返還したことでも、岩倉具視をはじめとする薩長関係者にとっては、自分たちが次期政権を握るには好都合なことだっただけです。
実際、明治政府は薩長関係者が牛耳っていましたからね。
だから、あの状況下の中で、慶喜のことを評価してもあまり意味のあることではないです。
テレビの時代劇では、人物も誇張されて偏った内容しか放送しませんし、書籍でも肝心な人物像についてはあまり記載されていない物もありますから、あまり鵜呑みにしない方が良いかもしれませんね。

  • 回答者:Sooda! くん (質問から2時間後)
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どちらも、正しいと思います。
只、優秀や誉れ高いとは言い難い将軍であったと思います。
「篤姫」やドラマで捉えられる人間像からしても、自分の考えで決めたことというのが浮かばない状況です。
自分が見るところでは才があったと思えることも見えず、配下(勝海舟などの人々)が有っての将軍であったと思います。(お飾り将軍と思っていますが)
もし、勝などの配下がいなかったら明治政府が立ち上がることもなかったと思います、悪ければ再び戦乱の世の中になっていたとも思います。
分裂の危機から救ったというのも選択の余地がなかったからとも取れるのですが。
家康の再来とは思いがたいですね、家康は幼少の頃から人質を経験し色々な困難を味わい成長し、配下を納め国を治めました。
対する慶喜は、そこまでの苦労をし国を治めたと言えるでしょうか。
配下を大切にしたという記録さえ残っていない(自分の知りうる限りでは)慶喜を自分は家康ほど凄い人間とは思えません。
一番近い考えとしては「二心どの」の考えが一番近いですね

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負け戦から、一人にげたというのが、卑劣のイメージだと思います。
僕は、大政奉還を決断したことは、評価したいとおもいます。
もし、内線になれば、おそらく、外国の植民地になってたと思います。

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私は、慶喜はいい評価は出来ませんね。
最後の戦の時も、負け戦と思うと、居の一番に
江戸に逃げ帰っていますし、大政奉還にしても
自分では何にも出来ないので、篤姫や和宮に
助けてもらったり、勝や色々な周りの家臣が
全て、動いて達成したことで、慶喜のした
事はなにも有りません。慶喜は楽に
長生きできただけの人です。

  • 回答者:Sooda! くん (質問から2時間後)
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大政奉還を決断した点だけです。

  • 回答者:知識人 (質問から59分後)
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やや参考になりました。回答ありがとうございました。

歴史的評価は大政奉還に見られるように
偉大な足跡を残していると思いますが
明治維新後、幕臣たちを無視するかのように
悠々自適の生活を送っているあたり
人情の機微に疎い様が見て取れます。
歴史的評価と道徳的評価の落差が激しい
矛盾した人格と取ればよろしいのでは
ないでしょうか。

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彼は徳川幕府最後の将軍で、大政奉還を決断したのが最大の功績とされていますが、実際には最終決定以外は、全て家臣の仕事でした。
硬直化し派閥だらけの政治システムの中で、よくぞあれだけの仕事ができたものです。
そういう意味では大人物だと思います。

  • 回答者:☆納豆 (質問から37分後)
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鳥羽伏見に戦いで兵を置いて自分だけ逃げ帰ったイメージが強いので、どちらかというと卑劣な感じがします。

  • 回答者:Sooda! くん (質問から35分後)
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参考になりました。回答ありがとうございました。

自分は彼を近代化の父と位置ずけてます

なぜなら、彼が大政奉還したおかげで日本も近代産業を受け入れられる態勢が整ったわけだし、ほかの将軍がやってたら100年遅れるか、列強の植民地化されてた可能性が大です

今の日本は無かったはずです

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あそこで大政奉還をせずに全面的に戦っていたら
もっとヒドイ状態になっていたでしょう。
今の世も別の物になっていたかもしれません。
だから、あれはあれで良かったのだと思います。

  • 回答者:匿名希望 (質問から26分後)
  • 0
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参考になりました。回答ありがとうございました。

内戦を避けるつもりだったら、素直に、辞官納地を受け入れれば良かった。鳥羽・伏見の戦いなどせずに。

まあ、IQは高かったが、優柔不断で、カリスマ性もなく。リーダーの器ではなかったんじゃないかな。もし、日本を良いように変える構想があったのなら、まず戦に勝ってから、ものを言うべき。少なくとも日本では、負けた者の意見なんて聞いてもらえない。

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あの状態ではたとえ何と言われようとも大政奉還が正しかったと思われます。
よく水戸浪士もたたかれますが、あそこまで尊皇攘夷論が波及して薩長も凌駕のごとく行けば閉廷は断腸のことと思います。開国そして現在の礎を作られたことを考えれば妥当だったと思います。
ちなみに慶喜公は往年は牧場で農作業など平穏で閑静に暮らされたそうです。

  • 回答者:知識人 (質問から23分後)
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秀忠の次にすきな将軍です。大政奉還のとき、坂本竜馬が、よくぞご決心なされたなと、よしのぶを命がけで守ると言っていました。その後、時代がかわり、普通の人になってしまいましたが。だれでも、(私も)よいときと悪いときがあるものです。

  • 回答者:Sooda! ちゃん (質問から18分後)
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