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過去の都と呼ばれる場所は、外部からの攻撃を防御するような場所に遷都したと思っております。

平城京→奈良盆地
平安京→京都盆地
鎌倉幕府→相模湾と山に囲まれた土地

なぜ、徳川家康は江戸という土地に遷都したのはなぜでしょうか?
また、墓を駿府ではなく日光東照宮にしたのでしょうか?

教えていただければ幸いです。
よろしくお願いします。

  • 質問者:skysports
  • 質問日時:2008-11-26 22:56:20
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回答してくれたみんなへのお礼

ふと疑問に思った事を、簡潔・詳しくお答えいただきまして、もやもやが晴れました。
皆様の回答に感謝します。

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徳川家康は、かつて豊臣秀吉の家来の1人でした。
江戸に拠点を作らざるを得なかったのは、上司に憎まれて左遷されるという、典型的なパターンを経た結果です。
天下人となった武将は、例外なく京都近郊に拠点を作りましたが、彼が既存の土地を嫌ったのは、そこが「新しい」土地だったからです。
当時の江戸は開拓次第でいくらでも石高を増やすことができ、自由に地形を利用できる未使用の土地がありました。
もしも謀反や下剋上があったとしても、十分に戦えるフィールド。
それが江戸です。
古地図を見ると、江戸というのは渦巻き状の街づくりをしていますが、その根拠はこれだと言われています。

  • 回答者:斜め45度 (質問から7日後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

他の方の回答のように、関東に左遷されました。関ヶ原で勝ち、豊臣勢力を滅ぼし、
天下人となりました。普通は(それまでの天下人なら)京都に凱旋し、その近く(畿内)に居を構えるのが通例でした。しかし彼は江戸に幕府を構えました。なぜか?実に興味深い議題です。
江戸や徳川あるいは東京(の都市や歴史)に関する研究者は数多くいますし、私もその端くれですが、江戸開府にいたる定説が「ある」か「ない」かと言えば「ない」と言えます。ですから、以下に記していることも回答者の「…だったらいいな」ということを記しているという前提で参考にして下さい。

家康は天下を取りました。さらに歴史に大きな金字塔を打ち立てるには、あるいは徳川の覇権をより大きな、盤石なものにするにはどうしたらよいか?関東平野という日本最大の平野でかつ、日本の中心軸にあるこの土地で事実上の国家運営をすることがもっとも適当であると考えました。
西で天下布武をしても、それまでの天下人の二番煎じ、三番煎じ…に過ぎませんし、信長や秀吉に対する意地もあったと思います。60近くになるまで艱難辛苦の人生を過ごし、「人生とは重き荷物を背負って歩む…」という名言?からも推察されるように、ようやく天下人となり、しかし他方で残りの人生の時間も決して多いわけではない…。その上で短期間で(太田道灌の礎があったにせよ…)何もない空間に巨大都市を作り上げ、平定の世を築き上げたら、「私は君たちがなしえなかったことをしたぞ!」とあの世で大言できると考えたのではないでしょうか?失敗したら、単なる愚か者ですが…。

それまで~戦国までの国・藩の為政者は何よりも倒されないこと、負けないこと、=ディフェンシブな思考、運営が最大の関心事でした。それゆえ、日本のような山地・丘陵・河川の多い土地、空間においては自然の要害のある場所に居を構えました。しかし、山城が典型であるように、そのような場所は空間的拡大性はなく数百万人を抱えられるような都市にはなり得ません。逆に言えば、その為政者の時のその場所は、民に良いかも知れませんが、そうでなくなったら同じような場所はいくらでもあるし、その場所の存在意義は大きなものとなりません。
関東平野はほぼ100㎞圏にわたり平地性が強く、いくらでも都市開発の空間はあります。もちろん平らなことは守りにくいことに直結します。さらに、日本では上のように自然の起伏を利用することは長けていても、人工の壁の技術はヨーロッパや中国とは比べられないほど低いものです。
そこで、家康はさまざまな制度(飴と鞭)を作り上げました。参勤交代や八百八町や士農工商や江戸風の儀式などです。また、民のレベルでも全国から人・物・金が集まるような政策、施策を進め100年後の元禄の時期には周辺を含め200万人規模の世界最大の都市を造りあげました。
もちろん家康はその姿を見るだいぶ以前にここの世を去っていますが、自らを神格化させ、その上で江戸の北表でかつ荘厳な空間である日光に社を構えさせました。遺影の一部は生まれ育った駿府にも移されましたが、江戸(=日本)の絶対神とさせるためには、やはり北の地に大部分があった方が、後の世への影響力の絶大と思ったことでしょう。その後も、ことあることに神君家康をキーワードに250余年にもわたり徳川時代を築き、今日の世界の中心都市(界心都市)東京の礎を築きました。
長々とすいません。最後に結果論ですが~我が国の歴史において、家康はもちろん偉大な為政者の一人ですが、私はそれとともに我が国最初の(近代的な)都市計画者であったとも思っています。

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江戸は秀吉に無理矢理与えられた領地でしたので
ある意味 東国に左遷に近い栄転をさせられたので必然的にその地になりました。
日光東照宮は江戸から見て北東の位置にあり、そこは鬼門の位置なので、死んで神となり
家康に江戸を護ってもらう。 と言った事から日光になったと言われています。

  • 回答者:匿名希望 (質問から3時間後)
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もともと、秀吉に命じられて、関東の開拓を命ぜられたから。
だから、家康は駿府から関東の中心として江戸に居を移すことになった。
その後、征夷大将軍になったから、結果的に江戸が中心になっただけ。

日光東照宮については家康の遺言。
日光東照宮は陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られている。
家康はこの不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたといわれている。

  • 回答者:とくめい (質問から32分後)
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元々江戸近辺は湿地帯で川が多く、もし攻めるにしても進入路はかなり限られていました。そういう意味では防御には適した地域だったのではないでしょうか。

日光東照宮については江戸から『鬼門』=北東の位置にあり、死んで神となった家康に護ってもらうという意思があった。と言うのが定説です。

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豊臣秀吉に押しつけられて、断れなかったからです。
貴殿が挙げる3つとの相違は、江戸に来た時点では、まだ最高権力者では無くて自分で選べなかったと言うことです。
そして、その地を少しでも良い場所にしようと風水に頼ったので墓所が東照宮に。

  • 回答者:爺 (質問から13分後)
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