高度の行政能力を持っていることを、求められれているのが官僚ですが、さて、その高度な行政能力とは、いったい、どんなのもでしょうか?
その定義は、別として、高度の行政能力を持った官僚がやってきた結果が現在の日本であることは間違いのないことです。つまり、現代の日本は、高度な行政能力を持った官僚がいないということを逆説的に証明していると思います。
その失敗の原因は、官僚登用方法が間違っているのではないかと思います。他の回答者も述べておられていますが、テスト学力優先の選考方法は限界があることは、私も同感です。
少し物覚えが良いということでテストの点取り競争に参加し、進学するにつれて、さらに激化する中、ただの点取り虫になっていきます。その最終ゴール地点が官僚なのです。感受性豊かな若い時代に、仲間や家族と過ごしたり、自然の中で自分や他の人のことを見つめたり、考えたりすることよりも、とにかくテストの点取りを優先して育ってきたのです。そうしなければ、今の日本の官僚には、まず、なれないでしょう。
それでも、テストが、まともな内容であれば、問題はないところですが、実際、そのようなことにはなっていないのです。どうでも良いことを覚え込んで、挑まなくてはなりません。昨今は、そのように特に覚えなくても、ネットの検索などを利用すれば、大抵のことは、正確で充分な解答が短時間で入手できます。点取り競争のためのテストなのです。
官僚になるために、どうでも良いことを覚えるために費やされた労力と時間は官僚の人格形成に、影響が全くゼロであることは、考えにくいところです。官僚として社会人になったその環境は、自分と同じようにように、元点取り虫の集まった世界です。先輩官僚は、年上で人生の先輩、職場の先輩、また学校の先輩のこともあるでしょう。狭い世界の中で、年功序列の縦社会が、しっかり築かれてしまっているのです。こんなことですから、自浄作用も働き難い環境で、裏金作り事件などを観ると、この傾向は、官僚以下、ほとんどの公務員全部に行き渡っていると考えるべきなのでしょう。
このように観ていくと、官僚にまともな感覚を期待すること自体が無理ではないかと思います。確かに、まともな官僚もいると感じますが、それは非常に稀なことではないかと思います。
さて、一番最初の課題の答えです。高度な行政能力とは、「自分が公僕であることを肝に銘じて認識し、民主主義制度を正しく理解し、社会に定着、拡大するよう遂行する能力」ではないか、と思います。そんなに、高度ではなかった、ですね。
点取り競争に参加してしまったことで、結果的に普通の感覚を持つことを選ばなかった人たちが官僚になっているのですから、モンブランさんへの答えは「現在の官僚には、普通の感覚を持った人は、かなり稀!」となります。