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タイトル:社会でともに生きていくためには

 社会では、以前からいじめにより、居場所を締め出される状態です。私もこのため、在宅の状態です。社会で、地域になじんで、共に、安心して生きていくために、どのような工夫をしていますか。教えてください。

  • 質問者:やまお
  • 質問日時:2008-03-28 01:51:55
  • 0

・・・大丈夫ですか?
「いじめ」は、どこにいこうと何をしてようと
複数の人が集まれば多かれ少なかれあることですよね。

いじめは、数が減ることはあったとしても
この世からなくなることは100%ないです。
いじめに立ち向かうのか、言葉は悪いけど逃げるのか。

私は、いじめから逃げるのって大いに賛成です。
耐えられなくなるほど頑張るよりも
逃げ場があるならどんどん逃げればいいと思います。
そこに新しい「場所」を作ればいいんですし。

安心して生きていくために。ですか。難しいですね。
「自分の身は自分で守る」じゃないでしょうか。
自分が守られると、まわりや相手も見えてきて
誰かを守ってあげることもできます。

まずは、自分を大切に。
頑張ってください。
難しいことを色々考えているようですが。
あまり考え込まずに…。もっと色んなこと楽しんでみては?

人生、楽しんだもん勝ち!って言葉もありますよ。

  • 回答者:ゆじゅ。 (質問から21分後)
  • 3
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いじめは過去も未来もあるでしょう。
いじめる側の意識が変わらなければ、いじめは無くならないと思います。
いじめている方は、たいした事じゃないと思っていることもありますし、
相手の気持ちがわかるようになりたいですね。
気の会わない人とどう接していくかと言うことは、難しいことですが
場合によっては、距離をとったり、相手にわかってもらう為に
努力することも必要になるでしょう。
自分で出来る事は、いじめをしないことですね。

  • 回答者:momoka (質問から7日後)
  • 0
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生老病死ということを、出家前のお釈迦様が仰っています。生きていくと言うことは、常にこの生老病死という4つの苦しみを伴うと言うことなんです。このことを感じてお釈迦様は、この世の人々の苦しみを少しでも和らげるために出家なさいました。そして人々の苦しみに対する理解を深めるために難行苦行に取り組み、悟りを開きました。これが仏教なんです。

人間として生まれた私たちには、生きている間は常に修行のための道や材料が与えられているのだと思います。

貴方の苦しみも与えられたものであって、修行をさせていただいていると考えなくてはなりません。ここに相談に来られる他の方も内容が違っても、色々な苦難を与えられているから、相談されているのです。内容が違うだけです。

それに取り組んで乗り越えていくことで一歩先に進めるのです。山を越える時と同じでは有りませんか?登りが苦しいからと言ってもう止めたと言って、進むのを止めたならそこでずーっと足踏みしているしていることになりませんか。

考え方を変えましょう。生きていると言うことは、死に方を考えるための修行ですから、与えられた課題に取り組み乗り越えるための活動をすることです。

社会的な活動としては、ボランティアも有ります。早朝、5時から5時半ぐらいまで試しに1週間続けて最寄の駅に散歩に行って見てください。駅の周辺を沢山の人たちが、人知れずお掃除して回っているのです。この方たちも貴方と同じようにそれぞれの苦しみを持った方たちなんです。生きているのですから。(どこの駅でも回数は違うかも知れませんが、やっているようです)

何度か見ているうちに、貴方の生き方が変るかもしれませんよ。

自分一人で生き方を決められないのであれば、出家するのも道かも知れませんね。お坊さんの間でもいじめはあるかもしれませんがね。
「尊くも今日もこの世に在ることは、道を歩まんためと知るべし」

  • 回答者:じい (質問から1日後)
  • 0
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いじめの定義にもよるけど、いじめというのは外の社会に出るときに許容しなければならないリスクの一つだと思うんだよ。
内側の共同体で暮らすことはもちろん悪い事じゃないけど、その共同体を維持するには誰かが外側から支えなければいけない。
それに内部の共同体(家庭など)では公的な成功を収めることはない。
換言すれば他者に評価されることがない。
そしてなによりも新しいことに挑戦することができない。
数々のチャレンジと必要性のために、リスクのある外の社会、共同体に入るのは仕方のない事さ。
問題はリスク管理だよ。外の社会でどうにもならない痛手を負ったなら、
自分の共同体に帰って休んだり他の方向に挑戦することもできる。
常に選択は自分がするもので、選択範囲もまた常に広いということを知る必要がある。
教育論の範囲かもしれない。
個人の尊厳と信念を重視した価値基準に関する教育が必要だよ。
もっともこれは保守的な考え方と言えばそうかもしれないけどね。

  • 回答者:たきもふ (質問から23時間後)
  • 1
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いじめられたらいじめ返す!!・・・って、それが出来ないからしんどいのですよね。お気持ち察します。

おそらく、やまおさんは自分よりも周りを気遣う心優しい方なのではないのでしょうか?

一番は「かわす」事です。気にせずに、「くっだらねー」っと、右から左へ受け流すのがいいです。

でも、それが出来ないからおそらく苦しんでおられるのだと思います。

今の社会は、自分本位というか、自分のことだけで必死で、周りに目を配る余裕(ゆとり)が無い時代です。寂しいですね。

でも、私は戦いました。それが自分の不利になることでも、不器用だなと思っても、解ってくれなくても戦いました。

それは自分のプライドがあったからです。

そんなプライドは捨てて、かわして軽く表面的に生きていくのが世渡り上手だと思いますが、私には、そんな生き方はできません。

自分に嘘をつきたくない、それだけは譲れないからです。

「大人しい」という言葉があります。大人になると事を荒立てず、自分の本心を言わなくなっていきます。我慢するともいえます。

でも、私は「そんな」大人にはなりたくありません(年は充分大人ですが)。譲ることも大事ですが、主張することが我侭だけとは限らないからです。

逆に、やまおさんが望んでいる生き方をしたいのであれば、そういう「大人」になるのが一番無難だと思います。

ちなみに、いじめている本人は、いじめていると言う自覚は無いことが殆どです。セクハラみたいなもので当事者が気が付いてないこともあります。
また、黙って耐えているから、調子に乗ることもあります。自分が上に立ちたいだけですので、逆にコテンパンに打ちのめすか、一言言って気が付かせるのも大事かもしれません。

「受け流す」「割り切る」「気にしない」「鈍感になる」「哀れむ(笑)」などが、世間的な対応だと思います。

ただ、私は明らかに間違っていたら戦います(笑)。電車で酔っ払いに注意してナイフで刺されるような損なタイプです。

でも、私はそんな自分が好きです。我侭かもしれませんし、辛いこともありますが、自分に嘘をついてまで生きたいとは思いません。

他人に合わせるか、自分に合わせるか、ほどほどにするか、その3点かと思われます。

なんにしろ、もし可能であるのでしたら、いじめるやつなんか相手にしないことです。
そんな奴らのために自分が苦しむのは正直馬鹿らしいですし、もったいないです。
「あーまたウザい事言ってくるなー」と、軽く受け流して、逆に憐れんでやりましょう。

私はすぐムッとして明らかに悪いことは上司だろうが言い返すタイプですが、戦いつつも、【自分の優しさ】だけは忘れないで欲しいです。

人はみな、上に立ちたがります。優位になることに優越感を覚えます。

させたい人にはさせとけばいいのです。そういう方は大抵自覚はありませんし、やまおさんの良さを知っている方は沢山おられると思います(それが自分には出来ないとしても)。

  • 回答者:ゆーたん (質問から20時間後)
  • 1
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人生は戦いだと思っています。戦いである以上、
敵は少なく、味方は多いに越したことはありません。
この闘争を私情に流され、いじめをするのはロスでしかありません。
ただ、生活圏内でのアイデンティティーの確立を他者のいじめで
確立する弱い個体が存在するのも事実です。

いじめを解消するにはたった一つ。さも「強い」と錯覚している側より
強くなることでしょう。ヒエラルキーの上位に立つことです。
これは会社でも社会でも学校でも。

なので私はへなちょこな個体なのでこのヒエラルキーの維持に
どう取り組んでいるかというと
まず、人間できないことは出来ない!出来ることをやってくしかない。
だから出来ることに関して機を敏にし意欲を持ってあたる様、心がけて
います。

  • 回答者:A/J (質問から5時間後)
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私は何をしてきたか…。時々、考える。

とても小さな一時的なことなんだけど、全くの孤独だと思っている生活の中に、一瞬、ホッとできることがあって、それを糧にしていた気がする。

そんな中で、ちょっとずつ、人との関わりあい方を知った気がする。自分の不出来に気づいていない傲慢、ひとりよがりな おせっかい、強すぎる正義感…。周りを傷つける自分に少しずつ気づき、反省し、自分の許せる範囲で変わる努力もした。
今、人へ注意したり怒ったりするときは、とても気を遣う。でも、相手が良いほうへ変われると持ったときは、必要なことは伝える。意外にきちんと伝わるけど、万が一、孤独になったときも なんとかなる。

でも、まだまだ、完璧なことはできない。
職場でのイジワルな先輩にも認められ、仲良くなったりもした。けれど、年月が経って、年齢差を理由に、別の後輩に仕事ができなくなるようなイジワルをされ続け、とうとう めげてしまった。年齢差を理由にされたので、立ち直れない。

私が年月をかけて理解したのは、生活環境は、自分でも変えられるし、周りの人で変わることもある。立ち向かうことは大事だけど、避けることも大事。

最近の私は、外へ出たい気持ちが増している。お金も必要になった。まだ、新たなイジメを怖がる気持ちもある。でも、皆が性格悪いわけじゃないことも知ってる。張り切って仕事して、イキイキすていたであろう時代に戻りたい。

お互いに、まずは外へ出よう。
私は傷ついた“職場”という世界に慣れるため、逃げる余裕を持たせるために、バイトを探すと思う(無職時代が長いと正社員応募は難関でもある)。
おどおどすると不審者に見える(私も そんな人は怖いから避けたい)から、普通にしていればいい。言われたことを淡々とこなし、わからないことは周りに聞き、手が空いたら 上司にそう言えばいい。周りとあまり係わり合らなくてもいい仕事だって、ある。

ひとりで散歩したり買い物するだけでも、外界の人=敵、じゃないってことに気づくと思う。入りやすい店や 居心地のいい場所も見つかるだろう。そこを拠点に、少しづつ行動範囲を広げることが出来ればいいと思う。
もし、趣味があれば、趣味の人が集める店に入ってみるとか、サークルに体験入会させてもらうとか、何かきっかけを掴めるといい。誰かとの会話の糸口がみつかるかもしれない。

“イジメ”は、受け取る側の心次第。「バカだね」と軽口を言われても「いじめられた」と泣く人はいる。そんな人は、固定観念を持っていることが多く、ちょっと鈍感になってみていいと思う。気づかないのが一番だけど、フフッと笑ってすませるとか、フンッと怒って無視するとかでもいい。

少しの我慢と努力をし、これ以上は居心地良くならない場所だと見限ったら、自分から捨てればいい。今は、自分の中の想像力で生んだ恐怖に打ち勝つことを考えるのみ。

  • 回答者:わらばば (質問から3時間後)
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私も困難な人生を生き続けてきました。苦しく、人生に失敗することも
ありました。その後事業を始めましたが、最初はうまくいっていたのに
他人のせいで事業を失敗させたりと、山あり谷ありの人生を送りました。
しかしそれらの人生の中で一つわかったことは人生いつかは良いことも
あるのでは、ということです。
もちろん良いこともあれば悪いこともあるとは思います。しかし、人生
を諦めることはいつでもできます。いつでもできるので、とりあえず今
日は諦めずに生きていこうと思うこともできると思います。私もここ数
年ずーっとそうでした。
私は成功した時は人もうらやむほどの成功をおさめ、しかしその成功も
長続きせず、地獄を味わうこともありました。
人生を諦めることはいつでもできるので、とりあえずは諦めるのを一日
一日先延ばしにしながら毎日を生きていこうと思います。
そういう気持でいれば、そのうちに長い間人生を歩んでいけるのでは、
と思います。

  • 回答者:メロン (質問から2時間後)
  • 1
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「いじめ」が存在すると言う事実が指し示すものは、「教育の荒廃」です。
高い志や高邁な倫理・道徳観などは、本来、「ゆとり教育」で充実するはずでしたが、現実には、ただ、授業の時間を減らしただけで、大失敗に終わり、ますます「教育の荒廃」が進みました。
既に、教育そのものが、破綻を来たしていると言えます。
なので、そこを根本的に立て直さない限り、無理でしょう。

  • 回答者:ムーチョ (質問から2時間後)
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