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もしもの話です。

もしも、関ヶ原の戦いで徳川家康が敗北し、なおかつ戦中に家康が死んでいたとしたらその後の歴史はどうなっていたでしょう?

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2008-12-10 23:18:54
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回答してくれたみんなへのお礼

みなさまありがとうございます。
いろいろな考えがあって面白かったです。
長文で書いてくださった方も多く非常に感謝しています。
ベスト回答は悩んだのですが、長文のうえ分析力に秀でていると私が感じた方にさしあげます。

戦国時代に世の中を動かしていたのは「天下統一」の4文字だったと思います。

それを支えていたのは武士の征服欲
武士以外の平和を望む声無き声
日本を意識できる文明技術の進化だったとすれば
例え家康が死んでも誰かによって天下統一がなされたと考えます。

当時その可能性があったのは以下の5大勢力

①豊臣宗家を傀儡する勢力(石田・前田)
②徳川宗家を傀儡する勢力(徳川譜代旗本)
③毛利氏
④上杉氏
⑤伊達氏

家康が死んだといっても家康が大勝負に出るからには勝算があっての事
この時点で最大の勢力だったでしょう。
その場合残りの4大勢力から真っ先に狙われるのは徳川グループ。
前田氏がうまく石田光成をコントロールできればあっという間に徳川包囲網の完成です。
徳川の未来はここで消滅するでしょう。

徳川宗家傀儡勢力消滅後一番有力なのは毛利氏ではないでしょうか。
上杉・伊達は地理的に近過ぎる為お互いが牽制し合い消耗する。
石田光成には人望がない。

残るは前田vs毛利
加賀の冬は雪に閉ざされるし
もともと前田氏は加賀の人間ではない
対照的に毛利氏は勢力拡大しているとはいえもともと中国地方の人間である。
それに物流の大動脈「瀬戸内海運」を実質的に支配下においている事を考えれば
毛利氏の優位性が際立っているような気がします。

最後の選択は
毛利氏が豊臣宗家を傀儡として担ぐのか
それとも自らが将軍となるかですが

秀吉が中国毛利征伐でやった事を考えれば一時期傀儡として利用するかもしれませんが最後には自ら将軍となるでしょう。
もともと豊臣宗家は将軍よりも関白を選んだ訳ですから
毛利将軍誕生に何の障害もないと思います。

毛利三本の矢が明治維新を待たずに天下統一を果たしていたかもしれません。

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大阪が日本の首都になり、豊臣家に従った大名たちの連合政権ができていた可能性がありますね。
当然、鎖国政策などはとらず、早くに工業が発達し、アジアのリーダーになっていたことでしょうね。

  • 回答者:たられば (質問から7日後)
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関ヶ原の戦いで徳川家康が敗北し、死亡したというのは、有名な説です。
その場合は、戦国時代に、逆もどりです。
豊臣・上杉・山田・伊達・島津等の、争いでしょう。
太平の世は、遅くなったと思います。

  • 回答者:たろべい (質問から7日後)
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「北斗の拳」を書いた漫画家が同様の漫画を描いていますね。

より現実的には、関が原の戦いに乗じて九州を平定していた黒田官兵(孝高)が天下をとっていたかもしれません。

息子の黒田長政が家康から功を褒められたと報告したところ、喜ばず関が原の戦いが早く決着がついてしまったことを悔しがったそうです。

九州の覇者として関が原の勝者と戦って天下をとるというシナリオを黒田官兵が描いていたというのが通説です。

また、どれだけの器量のあることを豊臣秀吉に見抜かれていたため、隠居して秀吉の生存中は息を潜めていました。

  • 回答者:歴史ファン (質問から7日後)
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戦国時代に逆戻りでしょうね。
天下を取るために、伊達、徳川、豊臣、毛利、島津、
その他、虎視眈々と狙うでしょうね。

  • 回答者:ノブナガ (質問から7日後)
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関ヶ原の戦いは目まぐるしく状況が変わっているので
どの時点で家康が死んだかで将来が大きく変わってしまいます。
一応、内通していた西軍武将達が寝返る前と仮定しておきます。
東軍は西軍より兵数が少なく(秀忠が率いていた部隊が真田昌幸に足止めを食らい合流できなかったため)
仮に寝返り等がなければ西軍が勝っていたとの説が強いです。

裏切りの先陣を切った小早川秀秋もギリギリまで寝返るかどうか迷っていましたので
西軍有利の状況、更に家康が討ち取られたとなると東軍への寝返りや不戦を貫いていた
大名達が「西軍として」動き出すのはまず間違いないと思われます。当然、東軍の士気も落ちているでしょうし。
ただ、西軍は逃げるところに追撃をかけるくらいはできても家康の本拠地・江戸まで攻め込む余力はないと思います。
一旦は双方とも撤兵することになるでしょう。

ここで大切なのは、関が原の戦いはあくまで形式上は豊臣政権内部での抗争の形を取っていたことです。
君側の奸である三成を排除するというのが東軍の形式的建前です。
だから加藤・福島といった豊臣家の忠臣達も「三成憎し」で東軍に属したわけです。
家康自身、秀頼に戦勝報告をしています。

この時点では、各大名達の考えはともかく豊臣家は東軍・西軍双方の主君でした。
秀頼がどう行動するかでその後の展開が大きく変わります。
例のような場合、徳川家は確実に後継者争いでもめることになります。
と言うのは家康自身は三男・秀忠を後継にしたいと考えていたのに対し
配下達は次男の結城秀康を後継とすべきと考えていたからです。
当然家臣や家康に味方した大名達は片方の後継者につくか独立するか三成側につくか・・・
という選択をすることになります。大規模な軍事行動を起こせるのはお家騒動終結後と見ていいでしょう。

大坂の三成達には絶対にやらねばならないことがあります。
それは秀頼に「自分は三成を支持する。徳川家の行動は謀反にあたる」と声明を出させることです。
もしそのような声明を出せば東軍に属していても豊臣家への忠誠心が高い大名達は寝返ってくると思います。

結局は各地にある程度の規模の大名が小大名を滅ぼすか吸収するかして群雄割拠に近い状況になるかと思います。
豊臣家は秀吉の頃からは勢力・影響力共に低くなるでしょうが優勢ではあるでしょう。
諸大名を完全に配下として抑えるだけの力もあるかどうか分からないですが。
徳川家は軍事・人事・外交といった面で弱体化するか分裂するかするでしょう。
自前の国力が高い上にどちらにも肩入れしていない大名は独立する可能性も高いでしょう。(伊達家など)
ましてや最初から独立志向だった可能性が高い黒田如水もある程度九州を制圧したら独立したと思います。

  • 回答者:「光成」じゃなく「三成」です。 (質問から4日後)
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私の希望ですが、
真田親子が活躍して、天下を取ってたら嬉しいな。
彼らになら同調して戦う大名も出てきたのでは?と思います。
そして、今の日本も、もっとマシな社会になっているに違いないと!

  • 回答者:幸村 (質問から2日後)
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豊臣に恩顧のある武断派武将が多く家康側についていたので、関が原後に石田三成がその武断派を懐柔できるかどうかにかかっていると思います。
家康以外に多くの武将をまとめる人物が見当たらないので(秀忠は関が原が初陣で武断派を取り込むのは難しいと考えます)、うまく武断派を豊臣政権内下に戻した上に実権を奪うことができればなんとか豊臣政権が維持できるかもしれません。
その豊臣政権が徳川幕府ほど長命かどうかは秀頼しだいかもしれません。
(徳川幕府も磐石な基盤を整えたのは3代家光の時です)

  • 回答者:ふみ (質問から19時間後)
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秀忠がどう動くかです。

すぐに弔い合戦をするようなら、東軍の大将も着いてくると思うので徳川の天下です。幕府は長続きしないでしょうけど・・・。

秀忠が引き返すようだと、西国は島津、東国は伊達の2大勢力時代として安定すると思います。

  • 回答者:匿名 (質問から18時間後)
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変わっていたでしょうね
戦国時代がまだ続いていたかもしれません

  • 回答者:匿名 (質問から13時間後)
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戦国時代への逆戻りでしょうかね。

秀頼は幼く、石田光成ではみんなが堅物すぎてみんながついてこないような。。

東北ですが、伊達政宗などがとっても気になりますね。

上杉景勝の動向もどうでしょうかね。

  • 回答者:ラッキー (質問から9時間後)
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石田光成が一時天下取り(トップは秀頼)したでしょうが、又、戦国時代に戻ったでしょう。黒田如水が、天下取った可能性も。

  • 回答者:匿名 (質問から9時間後)
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石田光成の政権が短命で誕生して、旧徳川派の譜大名連合に倒されるのは必至ですね。

  • 回答者:街角の電気屋さん (質問から7時間後)
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そりゃ、その後の大阪の「冬の陣」と「夏の陣」は起こらないので、豊臣政権は続くんじゃない。五大老は、徳川な抜けて四大老になるが、まあ名誉職見たいなものなので体制に影響などない。それで、豊臣家は幕府を作らないで、関白を世襲して、政治を行うのではないかな。 案外、統制の弱い連邦国家見たいな感じで、ズルズル300年ぐらい続くかも?

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関ヶ原本戦に参加していない表向き東軍に付いていた東国の諸大名は
徳川敗北を知ると戦後処罰を恐れ、慌てて徳川領へ攻め込むでしょう。
関ヶ原本戦に間に合わなかったという失態を犯した徳川秀忠が跡継ぎでは
仕えていた家臣達の中からも見切りをつける者も続出し
徳川家の存続する可能性は低いと思われます。
東軍に加担した前田や伊達も力を失うでしょうね。

豊臣(石田、大谷)や大老の上杉、毛利、宇喜田などの影響力が強くなるでしょう。
秀忠を足止めした真田も一気に大大名になるかもしれないですね。

その結果、単独で事を起こせる大名は居なくなり
勢いを取り戻した豊臣政権が継続。
その後は成人した豊臣秀頼の器量次第で、今の日本はよくも悪くもなるかと。
少なくとも断言できる事は、東京が首都になることは無く
今でも田園風景広がる、のどかな土地のままだと言うこと。

  • 回答者:名も無き兵 (質問から2時間後)
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西軍の武断派と石田光成の内紛で結局乱世に逆戻りするか徳川の組織力で数年遅れで徳川の治世になるような気がしますね。
あるいは黒田如水あたりが一時的に覇権を握ったかもしれません。
もしもの世界はいろいろな組み合わせがあると思いますので、どれも可能性があるのではないでしょうか?

  • 回答者:ULTRA7 (質問から37分後)
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淀殿のバックアップで、石田光成が我が物顔で政権を牛耳るかもしれませんが、他の諸大名が黙っていないと思いますね。
とくに、毛利.上杉.島津が怒るのではないでしょうか。
それを見た盟友の大友も、石田を見限る可能性もあり、ヘタをすればまた戦になりますね。
その時は、石田が淀殿を仲間に引き込み、豊臣VS反勢力みたいになって、石田達が大阪城に篭城して大阪の陣みたいな戦になる可能性も有り、その戦で豊臣が滅びることも有り得ますね。
そして、石田や豊臣を滅ぼした後は、また勢力争いになり戦国の世がしばらく続くかもしれないでしょう。
さらに、そのどさくさに紛れて、キリシタン関係者が長崎あたりを拠点に勢力拡大して、九州地方を植民地化にするかもしれません。
そのキリシタン勢力に対して、日本の諸大名がどう動くかが疑問ですね。
ヘタをすれば、島津がキリシタンと手を結び勢力拡大して、天下統一することも視野に入れるべきでしょうね。

  • 回答者:魔法使いバンちゃん (質問から30分後)
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鎖国がなくなり、もっと異文化がはやく取り入れられたでしょう

  • 回答者:匿名 (質問から25分後)
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鎖国の時代が無くなってたかもしれません。
今より外国との仲が良くなってたかもしれませんね

  • 回答者:匿名 (質問から22分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

私は、前田利家が将軍になっていたと思いますが、その後も覇権を競って、混乱の世が続き今のような近代日本(明治維新)になるのがもっと遅くなったと思います。
東南アジアにような国力の弱い国に成り下がっていたと思いますし、どこかの国に統合されていたことも考えられますので、家康が将軍になってよかったと思っています。

  • 回答者:ソーダ君です! (質問から18分後)
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徳川家康の家臣団には、加藤清正や独眼流など匆々たる家臣がいたから大きくは変らないと思います。
戦争は昔からそうであるように一人の大将でどうこうなるものでもないと思います。
それを支える右腕がどれくらいいるかで決まります。

  • 回答者:正宗 (質問から11分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

それほど変化なかったと思います。
あの時代は倒し倒されの時代ですし誰が統一しても同じだったのではないかなと思います。

  • 回答者:匿名希望 (質問から7分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

石田時代はそう長く続かなかったでしょう。早くから外国の文化を取り入れていたと思います。

  • 回答者:n (質問から6分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

よく小説や検証本などで、実は家康はあの時死んでいて影武者がたっている。
子供嫌いだったのに関が原あたりから急に子供に甘くなったのはそのため。
なんていうはなしがよく出ますね。
本田家やほかの譜代大名がしっかりしているのでそれほど大きくかわらなったと思います。
関が原以降、主義、忠義より勝ち馬に乗る、という流れは変わらなかったと思います

  • 回答者:乙骨太郎 (質問から6分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

豊臣政権が続いていた保証はないと思います。

 群雄割拠の時代に戻り、戦国大名から新たに国家平定を行うものが出てきたかもしれません。
 特に、秀吉が、まずかったのは、体制作りをしてこなかったのが原因だと思います。

  • 回答者:男はつらいよ。 (質問から5分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

日本の中心は大阪になっていたでしょう。
もしかしたら もっと開けた日本になっていたかもしれませんね。
鎖国とか しなかったでしょう。

  • 回答者:匿名希望 (質問から3分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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