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篤姫を見ていたのですが、女性に幾島・歌橋・などの名前がついていました。どんな立場の女性が?また、つける名前に由来とかあるのでしょうか?

  • 質問者:名前
  • 質問日時:2009-01-23 10:51:11
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幾島は御年寄、歌橋は上臈御年寄という役職に就いていました。
「年寄」はあくまでも役職名で、年齢が高いという意味ではありません。
大奥も表と同じく、御台所を頂点にピラミッドが形成されていました。
上臈御年寄、御年寄ともに「お目見え」と称し、将軍、御台所と直に顔を合わせる事
が許された身分で、声もかけて貰える立場です。
同じ大奥勤めでもお端(おはした)と呼ばれる者は将軍、御台所の姿を遠くから
ソッと拝むだけの存在でした。
この「お目見え」に1度でもなると、後世、他の場所で粗相をしたとしても雇い人と
雖も勝手に処分は出来ません。
幕府、引いては将軍・御台所の許可を頂くこととなります。
公家と反幕派の間を取り持ったという事で村岡の局が取調べを受けた時にも
厳しい詮議が出来なかったのは、この「お目見え」であり、しかも御台所の養母役を
努めた人間だったからでした。

「幾島」などは通称名であり、本名はちゃんとありました。
大奥内で京風で呼び合うのは、3代将軍家光以降、御台所は京から御台所を迎えて
いたところから慣習として定着、下(した)上にこれを倣うの言葉通り、大名家におい
ても上級職の女性の名は京風になったものと思われます。
通称名は通常雇い人が付けるのが慣例で、既に内外に知れ渡っていた場合には
雇い人が変わっても、そのまま使い続ける場合もありました。
由来はあった場合もあるかもしれませんが、関係がない方が多そうです。

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江戸時代のことは門外漢なのですが、平安時代は名字の一字、父親や夫などの
赴任先(当時の宮中に仕える女性の実家は、地方国司も多かったので)の地名、
役職名を付けていましたよ。清少納言や和泉式部などがそう。
女性は実名で公職に就くことは、長い歴史の中でまずなかったので、幾島や歌橋も
おそらく和歌とか源氏物語とかそういうところからつけたのでは?江戸時代の武家は
京風や公家風なものに憧れをもっていたし、実際京都からたくさんの御台所が
大奥に入っていたことだし・・・・

  • 回答者:匿名希望 (質問から6時間後)
  • 0
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幾島・歌橋などという名前は「出仕名」と呼ばれたもので
奈良・平安時代以降の宮中に仕えた女官が名乗ったものに由来します。

立場的には大奥の女中のなかでも「お目見え以上」と呼ばれた上の立場です。

大奥女中達のそれぞれの出仕名については、
ほぼ宮中の女中の先例などを参考したり、
出身となった家の姓を名乗った場合もあります。
源氏物語などや古書からとったものもあるようです。

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アレって愛称ですよね。

高貴な雰囲気の名前を勝手に名乗っていたのだと思います。

  • 回答者:匿名 (質問から3時間後)
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幾島も歌橋も京都から来ているので、京都のお公家さんが付けた物だとおもわれます。

  • 回答者:匿名希望 (質問から2時間後)
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通り名というか源氏名ですね。あの頃の女性は、立場が低かったので、愛称で呼び合ったということだと思います。

それにしても、幾島は貫禄もありステキでしたね。幾島との別れには自分のことのように心細くなり涙してしまいました。

  • 回答者:おあつ (質問から13分後)
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大奥でも上の立場の人は武家の娘など後ろ盾がしっかりした人のようですね。

中には商家の娘でも下働きから上がっていった人もいるようですが。

名前についてはフジテレビの「大奥」では総取締役が名前をつけているシーンがありました。

  • 回答者:匿名希望 (質問から9分後)
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