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「可哀想だから」という理由で自らの手で動物を殺せないという立場の人が、肉食を続けることは矛盾していますか?
理由とともに教えてください。

参考: http://www.roy.hi-ho.ne.jp/borachan/ 「動物のお医者さんが見てきたこと」→「肉食する大人たちへ」

  • 質問者:マンボウ
  • 質問日時:2009-05-19 10:34:42
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矛盾は・・・してないと思います。

そういう処理をしてくれる人がいるから、その人に任せてるけど
実際、そういう人がいなかったら「可哀想」なんて言わずに
狩りをするでしょうし。そうやって生きてきたんですし。

実際、豚を食べたいなら「豚を捕まえてさばけ」って言われて
部屋に豚数匹と調理する道具を置かれて放置されたら
何日かは可哀想とか殺したくないと我慢するけど
食べるものがそれしかなければ、空腹に耐えかねて、感情を消しさって
生きるために、捕まえてさばいて食べると思います。
豚じゃなくても、ヘビでもネズミでも。

要は「慣れ」じゃないですかね。
一匹さばけば慣れるでしょう。そんなもんです。

魚を捕まえてさばいて食べるのと、なんら変わらないと思います。
まぁ、私は魚もさばけませんが・・・(笑;)

こんな時代で、動物がペットとして可愛がられて
自分で狩らなくても食べれる時代に育ってる人間に
いきなり、逃げ惑う動物をつかまえて何頭も流れ作業的に手際良くさばき続けるその映像を見せても・・・。
初めてみて「可哀想」っていう言葉が出てきてもおかしくはないし
それで食うか食わないか選択しろ。っていう方が
間違ってる様に思います。

ちなみに、ソーセージの作る過程も結構キますよね。
小腸に肉をつめていく工程を初めて見たときは、衝撃的でした。
でもやっぱりおいしいので。

食べれますね。

===補足===
ベジタリアンになれば、牛や豚たちが食肉用に殺されない訳でもないし。という
考えもどこかにあるからですかね。
・・・後付の言い訳に聞こえてしまうでしょうか。
ベジタリアンや、そういった理由で肉を食べない人を見ても
「自分さえ食べなければそれでいいのかい?」っていう疑問もあります。

自分が食べなくたって、可哀想なものは可哀想ではないのかなぁ?と。
むしろ、食肉として殺された動物が、食べられずに廃棄になってる事も
可哀想な気さえしてきます。そっちの改善の方が先な気が。
動物にも、おいしく食べてもらえる「幸せ」ってないですかね?
・・・人間のエゴですかね。

すでに食べれる状態になった肉の塊を見ても「可哀想」とは思わないです。
ただ「さぁ。ここにいる好きな牛を一匹選びなさい。目の前でさばいておいしい肉を食べさせてあげるから」といわれたら
他の選択肢があってもなくても私は頂くのを断ります。可哀想で見たくないので。

でも、釣った魚はその場で食べたことがありますね。
可哀想という感情は沸かなかったです。
魚には鳴き声がないから?わからないですが。

矛盾してますかね・・・。
なんにせよ。「可哀想」っていう理由だけでベジタリアンになれるほどの意志はないので
色々理由をつけて、矛盾も正当化してるのかも。

  • 回答者:・_・ (質問から17時間後)
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回答ありがとうございます。
自分が「生きるか、死ぬか」の場面で豚を殺すことは仕方ないと思います。それが人間であっても、場合によっては死体を食べることも責められません。
ただ、現在では、少なくとも他に選択肢があるわけです。食べなきゃ、死ぬという状況ではありません。
「慣れ」の問題であるなら、その映像を繰り返し何度も見ることで「可哀想」という感情がなくなるのだろうと思います。最初は可哀想と思っていても、慣れで可哀想と感じなくなった人が肉を食べることは矛盾しません。
ただ、可哀想と思いつつ、現実を直視せず、他に選択肢があるのにあえて肉を食べることは矛盾していませんか。

補足ありがとうございます。正面から回答してくださり、とても感謝しています。
私も、食べられずに捨てられる動物の存在は重くうけとめています。
もし、一人が肉を食べることをやめたり、その量を減らすと、一時的に廃棄される肉の量が増えるでしょう。「あなたが食べると思って殺したのに、食べないから捨てるよ」という結果になるでしょう。あきらかに、命を無駄にしています。
では、肉を今までと同じように買った場合どうなるでしょう?すでに殺された分は無駄にならないでしょう。しかし、それは「どうぞこれからも、生産して、殺してね」という意思表示でもあるのです。あまり売れないものをたくさん生産することはないのが経済原理ですから、不買をすることで、長期的には無駄に殺される命を減らすことにつながると思います。

一人がしても、なんにもかわらないという意見もありますが、そうすると環境問題も同じことがいえそうです。大事なことは、個人がよいと思うことを実践することだと思います。一人が変わらないと、社会もずっと変わらないですから。

並び替え:

殺す勇気がないのを、かわいそう、と摩り替えているのです。

  • 回答者:はた (質問から7日後)
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たしかに、本当には「可哀想」とは思っていない可能性もありますね。
回答ありがとうございました。

そうですね。そう言われると矛盾していると思います。

私たちは動物をかわいいと言いながらも、
しっかり食べていますね。

自分が殺すところを見なければ、食べれる感覚です。
目の前で殺されると食欲がなくなったりもするそうですが。

時間がたてばそのことを忘れて、
また食べる。。。

私もその一人、矛盾しながら食べています。

かなり考えさせられました。

  • 回答者:サリ (質問から7日後)
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正面から回答くださりありがとうございました。
矛盾じゃないの?とモヤモヤしていたので、一緒に考えていただいてとても嬉しいです。
本当にありがとうございました。

矛盾しています。殺すことがかわいそうなら食べることは出来ないはず。
自分で殺せばかわいそうだけど、他人が殺せばかわいそうではない?
殺されていることに目をつぶって知らん振りを決め込んでいるだけではないですか。

牧場で牛をかわいい、かわいいと眺めながら、バーベキューを食べる。

  • 回答者:密飼い (質問から13時間後)
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よく理解できます。
回答ありがとうございました。

違うでしょ。
可哀想は感情だし、食べるは本能だから。
日本では屠殺する人に対価を払い、食しているだけであって、
誰も屠殺する人がいなくなったら、自分で殺すでしょ・・・。

それよりも野菜だって生きているのに、『肉が食えなくて野菜は食える』方が
矛盾を感じる。

  • 回答者:雑食 (質問から12時間後)
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回答ありがとうございます。

上記は、「自分では殺せない」という立場の人についての質問です。と殺する人がいなければ、自ら積極的には殺さないという人を念頭に置いています。

確かに矛盾してますが、
その矛盾とどう折り合いをつけるかは個人の選択ですね。
菜食にすることで、矛盾から脱したというのはあまりに単純だと思います。
菜食にしても、何かの命を犠牲にして生きていると思うからです。
道を歩いてれば、虫を踏んづけるし、蚊やハエだって殺します。
自分に危険がせまれば、狩だってするでしょう。
生きるということが矛盾なんだと思います。

ただ、殺す過程をせめて知ってほしい、というのは、
そのとおりだと思います。
今のような無駄殺しの食システムはいけないという意識は理解できます。
生命への敬意を失ってしまうような、
そういう現状は結局自分たちに跳ね返ってくると思います。

  • 回答者:匿名 (質問から12時間後)
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菜食にすることで、矛盾から完全に脱するわけではありません。生きていくうえで他者の命の犠牲は不可避です。
しかし、犠牲を減らす努力を何もしないよりは、努力をする方が矛盾が少ないように思われます。

一見矛盾していそうで、矛盾していません。
何故なら、「可哀想だから」という理由で自らの手で動物を殺せないという立場の人が、「可哀想」と思っているのは、実は動物ではなく、「動物を殺さなくてはならない自分」だからです。
よく、手に余って飼えなくなったからといって、鰐などの危険なペットを(処分するのではなく)池などに放す人がいますが、これなど典型です。
他人が鰐に噛み殺されてもお構い無しです。

本当に「動物が可哀想」と思う人は、その動物が生きていけないであろう環境に放置したりはしません。

  • 回答者:里に下りた熊 (質問から10時間後)
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回答ありがとうございます。
「可哀想」というのは、真意でないという見解は一考の余地ありだと思います。
ただ、ここでの回答を見るかぎり、「殺すことを意識していないから、主観的には矛盾しない」という人が多いように思われます。

理論的にはそのとおりでしょうね。
しかし、それを言い出すと、いくらでも話ができちゃいませんかね。
稲作が嫌な者は米を食うな。
大工仕事がしんどいと言う奴は家に住むな。等々。
分業を否定したら、原始時代に戻るしかありません。

  • 回答者:匿名君 (質問から7時間後)
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質問は、技術的に困難なことを、分業するのはおかしいという主旨ではありません。
倫理的な問題です。
たとえば、「児童福祉のため、長時間の児童労働をさせてはいけない」という考えの持ち主が、海外で過酷な児童労働の結果生産された商品を買うことは矛盾していないか、というのと似た問題です。

矛盾しているんでしょうね。たまに考えることがあります。
せめて殺すところを見るとか。食物対して、命に対しての
感謝がかわってくると思います。

  • 回答者:ポン (質問から7時間後)
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「いのちの食べかた」という映像をおすすめします。"Our Daily Bread"をYoutubeで検索したら、予告編が見れるはずです。動物愛護を強調した映像ではないので、残虐なものではありません。

可哀想だから自らの手では殺せないけれどお肉は食べるという事自体は矛盾です。

そうですね。私も同じく矛盾しています。

では牛や豚や鶏を自分が目の前で殺してそれを食べましょうと言われれば絶対に
無理です。血や内臓などを見る事が恐いとかではなく.生きているもの全てに危機感が
あれば恐怖心を持つ行動をする事自体恐ろしい事をしようとしている罪悪感があるからですね。愛着感が無くてもです。

なので食べなくてもいいものですが..お肉として売られていると人は味を知っている者は好んで食べます。娯楽の為に食べのではなく.味を知っているから体が求めるのです
全く味の知らない者が.ではダチョウのお肉やカンガルーのお肉が売られていても
日本人は見た目では買わないでしょう。

それでは日本でも可哀想だと思うのでしたら牛や豚や鶏の殺して解体する場面を
見せるべきですね。
どのくらいの人が食べるのを止められるでしょう。
何故それをしないか?「どうしたらお肉としてスーパーに売られるのでしょうか?」と。
それを見るのはあまりにも虐殺行為だからですよね。
それを見せずに居る事自体が「世の矛盾」なんだと思います。

獣医さんのサイトは見ましたが..
私に獣医さんになる為の大学生から相談がありました

「私は獣医になりたいと思い大学に通っていますが.手術等の様々な実験学習で
 皆さんが飼われているゴールデンレトリバーやビーグルやプードルなど様々な犬が
 いて心が苦しくてどう考えたらいいのかやり切れないです。」と。

獣医さんになる為に犠牲になっている様々な実験で使われている犬もいるのですよ。
その死を無駄にしない様に.獣医さんになったら苦しんでいる犬を助けて欲しいととも切実に思っている事です。

  • 回答者:匿名希望 (質問から7時間後)
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肉のできるまでを知らない人が多いことには問題がありそうですね。
家畜の扱いやと畜を知らないひとに、動物を可哀想だと思うことと矛盾しているか問うても、実感がわかないのかもしれません。

基本的には矛盾していると思います。
殺すのは可哀想なのに、すでに殺されてしまったお肉は平気というのは
明らかな矛盾だと思います。

ただ、矛盾しているからと言ってお肉を食べることが悪いことだとは思いません。
人間が生きていく上で必要な栄養源も含まれていますから。
でも必要以上に動物を殺すことには違和感を覚えます。

  • 回答者:う~ん (質問から6時間後)
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おっしゃるとおり、生きるために必要最小限の栄養摂取のための肉食は否定できません。人が生きるか、死ぬかの選択では動物の犠牲も仕方ないと思っています。

ただ、現状は、必要以上に殺していませんか。便利、快適という理由で大量生産、大量廃棄のサイクルになっているようにみえます。

やっぱり、自らの手で動物を殺すということはできません。
でも、肉食は続けています。
何故かというと、余った食料を捨てるということもできないからです。
捨てるのだったら、肉となってしまった動物を殺す必要がないわけでしょ?。
本来ならば、殺さないのが一番なのですが、食べるために殺したなら、きちんと生命をいただくべきだと私は思います。

===補足===
やっぱり、不十分ですか??。
ただ、誰かが自分の代わりに殺しているということを忘れずに食べるべきだと思うんです。だから、賞味期限切れだからとかの理由で食材を粗末に捨てるということは許せない気がします。
一番良い方法は、動物を殺さないことが最善だと思います。

  • 回答者:匿名希望 (質問から6時間後)
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すでに殺した生き物を、捨てるのは問題だと思います。殺した側の責任として、食べるべきだと思います。
だからといって、これからも同じ量あるいはもっとたくさん殺し続ける理由としては不十分ではないですか。

補足ありがとうございます。
殺してくれたことに感謝すること、殺されたものを粗末にしないことは大切だと思います。
ただ、肉を購入することは、これから先も生産し、殺してくださいという意思表示でもあるように思います。

矛盾していると思います。
少なくとも自らの手では無理でもその映像を見るぐらいの覚悟や、自分の代わりにだれかが殺しているという自覚をもって食べていくべきだと思います。

  • 回答者:匿名希望 (質問から5時間後)
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とてもよく理解できます。回答ありがとうございました。

一応肉は食べますが、でも殺された牛が可愛そうと思う時があります。

  • 回答者:えい (質問から4時間後)
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矛盾しているかについてはどうですか。

別に矛盾はしていないと思います。

動物は可愛い、殺せない。
肉はうまい、食べる。

どちらも真剣にそう思ってしていることです。
切り身で泳いでいる魚がいると信じているようなもので、
知識として知ってはいても、感覚として同じ物ではないのですから、
矛盾は生じません。

私は、どちらかというと、
雑食生物として生まれてきたくせに、可哀相で食べられない、
という人の方が、矛盾を抱えてると思います。
矛盾が悪いことではないですけどね。

===補足===
意識しなければ、ではなく、意識できないのです。
感覚として理解できないのです。

牧場で牛を見て、「うまそうだな~」とか思いませんから。
アレを肉と同じ物だとは、認識していない。

深く掘り下げれば、「客観的に矛盾していませんか?」
とツッコむ人は出てくるんでしょうけど。
可哀相、って思うのも、おいしい、って思うのも主観ですよね?
客観的に捉えて語る意味がわかりません。

旨み成分がなんとかで、だからおいしいんですよ、って説明されても、
おいしいかどうか実は、よくわからないですよね?

客観的においしさを語るってそう言うコトだと思うんですが。

  • 回答者:切り身が泳いでたら食べないよ (質問から4時間後)
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お金を払って間接的に殺してもらっていることを、意識しなければ、動物を殺せないという倫理観を持っている自分とは矛盾しないということですか?

主観的には矛盾していないが、客観的には矛盾していませんか。

補足ありがとうございます。
主観だけで判断すべきでないと考えたのは、「可哀想」という概念が、倫理的な行為規範(=「してはいけないこと・すべきでないこと」)になっているからです。そして、一方で「すべきでない」と捉えたことを「行為する」ことには矛盾が生じえます。
もちろん、「可哀想」=倫理的なものではなく、情動に過ぎない(自分の快・不快に過ぎない)のであれば、倫理的な規範でなく、行動に矛盾はないです。
「殺すのが可哀想」=「殺すことが不快」にすぎないのでしょうか。

昔のアニメで ヒミツのアッ子ちゃん で主人公がそういった理由で肉は食べない、というストーリーがありました。結末はごにょごにょでしたが。

土地柄自分は車を運転しているとき豚や牛を乗せたトラックが前にいるときがあります。時には運命を分かってか騒がしく泣いているようなこともあります。
テレビなどの映像で可愛い子豚の兄弟なんかも見ています。と同時に何のために生まれてきたのか運命を痛感します。

可愛そうとかの感性と自分たちが生きる意志とは相容れないように思います。
野の草花や旬の野菜さえ食べれれなくなってしまいます。
ありがたく無駄の無いようにすることが大切だと思います。

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生きるうえで、他の命の犠牲は避けられないことはわかります。
ただ、現在、食べ物は生きるためではなく、娯楽のために生産されているように思います。
選択可能な中で、可哀想という感性となるべく矛盾しないものを選ぶことは可能ではないでしょうか。

矛盾はしていないと思います。
食肉にされていると食べ物と認識するので、平気で食べられるのだと思います。

  • 回答者:マグ (質問から3時間後)
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認識しなければ、矛盾しないのでしょうか?
矛盾していることに、無自覚なだけではないですか。

大学生の時、ゼミで「鶏を自分達で殺して食べる」という課題がありましたが、できませんでした。鶏肉は大好きなんですけど…
自分でしめた方が食べものの大切さが分かるということですが、やっぱりできないです。
食肉を解体している人たちはその肉が食べれなくなると聞いたことがあります。
私の父も幼い頃、祖母が鶏を殺しているのを見ているので、鶏肉は食べれません。

===補足===
鶏肉は大好きなのに、自分で鶏を殺して食べるのは嫌だというのは矛盾してますね。

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実体験を教えていただきありがとうございました。
矛盾しているかどうかについては、いかがですか。

補足ありがとうございます。よく理解できました。

とても難しい問題だと思います。。。
つまりは”命の定義とは何か?”ということだと個人的には感じます。

例えば、農家の方々が育てたトマトやきゅうりにも命はあるという
考え方をされる方や、泳いでいる魚はカワイイと感じる方々も
同じようなジレンマにぶつかっていると思いたいです。
その命を奪わないと、人は生きていけない…それだけの事だと思います。

『可哀想』という理由だけで食用に育てた動物を殺せなくても、
植物や魚は大丈夫という人も多数いるはずです。
要は動物(又は植物や魚)への思い入れの差なのでは?と感じます。

参考URLも拝見し、素晴らしいお考えだと思いますが
私はもう少し生きていたいので、申し訳ないですが肉食をやめられません。
ただ、アジアのとある国の方々のように”椅子以外の4本足は全部食べれる”という
域にまでは達していませんが^^;

的を得ない回答でスミマセン。

  • 回答者:焼肉大好き (質問から2時間後)
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回答ありがとうございます。
「その命を奪わないと生きていけない」というような、緊急不可避な状態であれば、可哀想に思いつつ殺すことも仕方ないと思います。殺人はだめでも、相手を殺さないと自分が殺されるときは正当防衛が成立しますよね。

でも、現代社会では、あきらかに必要以上に生産して、殺していますよね。便利で快適な生活のために殺しているわけです。
生きるためではなく、娯楽のために食べることと、動物を可哀想に思う気持ちは矛盾してるのではないか、と思えるんです。

確かにこの世の中は矛盾だらけですね。自分もパックされた肉は食べていますし、魚釣りで殺したこともありますが、鳥を殺してさばくのは出来ないですね。
蚊やハエは平気で殺しますし、本当に矛盾していると思います。

  • 回答者:とき (質問から2時間後)
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わたしも矛盾だと思います。
回答ありがとうございました。

直接手を下すことと、食品として購入すものとはちょっと違うのではないでしょうか。。
なので矛盾は感じません。

私も可哀相だから殺せないと思いますが、すでに食肉となったものに関しては何も感情はありません。
顔がないからでしょうか…分かりませんが。。
でもきっと自分で殺してさばかないといけないのならば食べないと思います。

===補足===
私はすでに食品になっているものに関してかわいそうとは思いません。
私にとってはトレーに入ったお肉は無機質なものです。
生き物ではありません。
間接的に殺してるのは確かですが、私がどの牛か、どのブタか、どの鶏か選んで「あれをください」と言ってその場でさばいてもらっている訳ではないのでスーパーでお肉を選ぶ時にかわいそうなんて考えません。
逆に、そんなこと考える人いるんでしょうか。。
おっしゃるように殺してること自体に変わりはないですが、じゃぁどうしろと言うのですか。
かわいそうだら食べないって数人が言ったところで何も変わらず、ただ廃棄処分される肉が増えるだけです。
私にはそっちの方がよっぽどかわいそうだと思いますね。
殺すくせに食べない…このことの方が矛盾してます。
動物達はただの無駄死にです。
偽善者ぶって食べない人達の考え方が幼稚でかわいそうに思います。

  • 回答者:ぷにぷに (質問から14分後)
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回答ありがとうございます。
食品として購入すること=間接的に殺してもらうことであって、殺すこと自体には変わりないと思うのですが、その点はどう違うのでしょうか?

補足ありがとうございます。
たしかに、食べないのに無駄に殺すのは残酷ですよね。
すでに買ってしまって、お皿の上に乗っている肉を「かわいそうだから」といって捨ててしまうことは問題だと思います。
ただ、肉を買わない(もしくは、買う量を減らす)ことで、肉の需要減、供給減につながるため、買わないことが全く無意味なこととも思えないのです。

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