すべてのカテゴリ » 知識・教養・学問 » 知識・学問 » 歴史・地理

質問

終了

赤壁の戦いでは、夏口惇や、楽進、李典、張郃など曹軍の有能な武将が参加していないようなのですが、どうしてなのでしょうか?

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2009-02-14 11:43:35
  • 0

並び替え:

史書の『三国志』における、赤壁の戦いの記述はそっけないものです。
特に魏側のものが。
なぜなら、『三国志』における正統な王朝は魏ですから、魏にとって都合の悪い
戦役が細かく描写される必要はなかったのです。
曹操の武帝紀でも、呉を攻めたが都合が悪くなったので撤退したという程度しか書かれていません。
魏の中核の武将たちの列伝でも、彼らがこの戦いに参加したという記述がありません。
ですから、まったく参戦しなかった可能性もあれば、従軍したが前線で戦わなかったという可能性もあります。
とにかく戦死しなかったことだけは確かなわけです。
赤壁の戦いに参加した軍勢の数は、よく分かっていません。
中国史においては誇張した数字が当たりまえですので、、実数の判断は難しいのです。
一般的な説として、曹操軍が荊州平定につれてきたのが30万。
荊州で降伏して、吸収した兵が10万。
これで曹操軍40万で、これを2倍程度に見積もった数字が
演義などでよく言われる80万です。
40万のうち、新たに平定した荊州に駐屯させる必要がありますので、
赤壁の前線に出て行ったのは20万程度と考えられます。
当然、曹操軍はもともと水軍が不足していますから、
赤壁に進軍した部隊の中核は荊州の降伏兵だったでしょう。
赤壁の戦いは曹操にとって大敗でしたが、
失ったのは主に荊州の水軍だったはずです。
赤壁後も、曹操軍は活発に動いています。
つまり、曹操の中核部隊はほぼ無傷であり、将軍たちも同様だということです。
曹操にとって、荊州を平定できたことが、最重要事項であり
ついでに呉まで征服できればもうけものという程度だったかもしれません。
赤壁での敗戦は、孫権と劉備にとっては死活問題でしたが、
曹操にとっては、それほど重要な戦いではなかったと思われます。
赤壁時点での各武将たちの動きは、記録がないため分かりませんが、
推測すれば、
一つは、北方の馬超たちに対する備え
さらに、荊州を固めるための駐屯軍の確立(これが一番重要)
これらに従事していたと考えられます。
結果、荊州の主要地域は魏の領土となり、魏(正確には晋ですが)が天下統一を
成し遂げることができた最大の要因となるのです。
例えば、曹操一門の夏侯惇や曹仁は、荊州や揚州の前線の総督として
赴任しています。

  • 回答者:泣き虫孔明 (質問から9時間後)
  • 0
この回答の満足度
  

陸戦(騎馬戦)に長けてはいましたが
水上戦(船の扱い)では素人同然です
無理に参加させても命を落とさせるだけでメリットはありません
それに死なずとも各武将が率いる軍が負けたとなると
武将の名声は地に落ちて今後の作戦にも悪影響を及ぼします。
第一曹操は絶対の自信があったのでしょう
”負ける筈がない”との
結果負けましたが。

それと曹操が留守の間信頼出来る武将で守りを固める必要もありました。

  • 回答者:元譲 (質問から40分後)
  • 0
この回答の満足度
  

関連する質問・相談

Sooda!からのお知らせ

一覧を見る