この問題に対して述べたい事が、非常に長くなってしまい済みません。
私はこの漫画家の世界観を、タイムリー且つダイレクトに影響を受けて育った世代の人間です。
そういう世代の中に、某自称ミュージシャンも育っているのも事実(自称としているのは個人的にこの男を「作った唄に対して責任を持たない男」と評価しているからです)で、影響を受けた感は否めません。
受けずとも、表現上、意識して言葉を掘り起こしている意図がある、そうでなければ言葉のフレーズが長文にわたり『偶然にもそのままトレースされる』なんて事はありえないと思っています。
個人的感情は抜きにしても、歌を聴いた時に、「あ、これパクリだ」とすぐ判った事でも明白です。
また、この漫画家の肩を持つわけではないですが、でも、確かにこの影響を受けて育った一人間として、とても大切にしていた事を踏みつけられた気にもなっています。
それは、今ひとりの親となり、子供達との会話の中(一世代前は、今の様に子供とマンガが読める、同じテレビを見れるなんて事は皆無で、「マンガやTVばかり見てないで早く○○しなさい!」とよく言われ、「現在は大きく様変わりした」という事も含め、時代邂逅も込みで色々話をしてます)に、伝え残している事柄の中に浸透している知識でもあり、大きな事を言えば、自分が経験し、体験し、培った知識や行動の歴史の一部分でもあるわけです。
この問題然り、また別の事象・事件の中にも、事実を明白にせず、あるいは確認を怠ると言う事は、
”一人称の事実のみならず、とりもなおさず現実を生きる子供達に確かに影響される、『根本の証明の不確かと混沌』に繋がって行く”事を忘れてはいけないと思います。
様々な問題を抱える現代の、その一つ一つは単純明快にも関わらず、絡み合い、ごまかして複雑多様化し、先送りされているのを見ると、少し大げさですが、果たして私達は、事実を正しく認識していない次の世代に、無責任に転嫁しはしないだろうかと思えてなりません。
少し軸がずれましたが、民族的にも日本人は、複雑な言語体系を持って「表現」する事のできる世界的にも類を見ない人種ですが、言葉を大切にしている様で、その流麗さとは裏腹に、表現上軽視している向きもある様です。
言葉自体が知識の集合体である以上、哲学的にも「言葉を残す事」こそ究極であり、到達点。
某偽ミュージシャン(「表現」がキツイ?)が言う様な、「仏教を勉強したらそうなる」ほど、宗教が「哲学表現的真意」が低いとは思えず(仏教上の時間の観念は教義上そんな表現にはなり得ない)、そうだとするなら、学んだ本や、教え方の中に個人的背景(要は教えた側の人物や事物などの媒体の中に、この世代の影響を受けた私の様な時代邂逅的な部分や表現)が潜んではしないだろうか。
かく言う自分も今、主体となるのは自分の言葉でも、少なからず誰か、何かしらのフレーズに影響を受け、『表現』していると思いますし。
その中でも『知的財産』において、「言った事に責任を持つ」という考え方に疎い様に思われます。
「これは『私』が」と明確にしない方が美徳とされ、(善悪問わず、実際その方が物事がうまく進む場合もあったりして、ですが)最終的には『表明』した者の方に利潤を含む、栄華賞賛を根こそぎ持っていかれたり…。
漫画であれ、歌であれ、「言葉」がひとつの大きな商的手段である以上、知的財産を守るという観点では、法的手段において、はっきりさせる事はとても大切な事で、最たる例で言えば、企業名であったり、そのキャッチフレーズだったり、技術的知識であったり…。
(以前、某大企業に開発者が知的見込み利益として数十億を請求訴訟したとか、最近でも、韓国に”某焼肉店”にそっくりの店が話題になり、商業登録をしなかったばかりに韓国の営業者に、「店の名前は商売に影響ない」とまで言われちゃいましたよね)
教育的観点からも、『「誰」が「何」を「誰」に伝えたのか。』では、受け取る子供達にとって、大きく意味を変えてしまうし、特に子育てにおいては、端的に影響されると思います。
道義的に見ても、言った言葉に責任を持つという事では、何気ない日常の些細な事ででも注意すべき事ではないでしょうか。
あと、非常に個人的見解ですが、某漫画家にとっての大切な漫画達(ヤ○ト原作者問題や9○9映画オファー詐称問題やらその他諸々)が、次々と無断でパクられている現状に、氏自身が異常に神経質に為らざるを得ない立場にいる事に、著作権上深く同情を寄せてるという事も付け加えておきます。
- 回答者:nipponia (質問から20時間後)
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